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・・・貿易風・・・ 19

 いったん鞄を下ろすと、ヒースは無言のまま、数秒間セーラを見つめた。 強い光を帯びた、そのくせもやのかかったような底の見えない眼差しで、セーラは奇妙な不安感を味わった。
 沈黙にいたたまれなくなって、作り笑いを浮かべながら彼女は自分から話しかけた。
「お別れですね。 おかげさまで楽しかったわ」
「それはどうも」
 いくらか他人行儀に答え、ヒースは周囲を見渡した。
「付き添いのメイヤーさんは?」
「じき来ると思います」
「そうですか」
 普段は明るくて親しみやすい口の端が、きゅっと引き締まって厳しく見えた。 そのままの硬い表情で、ヒースはまたセーラを見据えた。
 そして、思いがけないことを言った。
「もし辛いことがあったら、窓に蝋燭を置いて三回点滅させるんですよ」

 え……どういう意味ですか? ――そう聞き返す間もなく、ヒースは鞄を持ち上げてさっさと船を下りていった。 残されたセーラはあっけに取られ、口を半ばあけて彼の後ろ姿が消えていくのを見守った。
 その肩に、軽く誰かのの手が触れた。 ぼんやりしていたセーラは、飛び上がるほど驚いた。
 背後にいたのは、紺色のコートをびしっと着こなしたトロイだった。 輝きのある青い眼に寂しげな光をたたえていた。
「いったんお別れですね。 でも会いに行きます、必ず! ヨークの家の住所を教えてください、ぜひ」
「ヨークじゃないんです。 近いですけど」
 ハンサムな青年がわざわざ住まいを訊いてくれるのは嬉しかった。 あんな遠くまで本気で来るつもりかどうかわからないが、セーラはかじかんだ指でできるだけきちんと紙に書いて渡した。 トロイはその紙切れを宝物のように胸のポケットにしまいこんだ。 そして、帽子の縁に手をかけて頭を下げ、途中で抜け出してきた積荷下ろしの監督をするためにに飛んでいった。

 やがて、メイヤーがせかせかとやってきた。
「待たせたね。 何を見ているの?」
 タラップに視線をさまよわせてヒースの言った謎の言葉を思い出していたセーラは、我に返って口ごもった。
「ええ……いえ。 なんでも」


 結局、町でコートを買うことは出来なかった。 汽車の時間が迫っているとかで、小走りで駅に行き、獰猛な雄牛のように煙を吐く列車に飛び乗った。 窓の外は、屋根すれすれに迫ってくる鉛色の雲で空が覆い尽くされ、その重みからするといつ豪雨になってもおかしくない様子だった。
「今夜はロンドンで泊まり、明日はまた汽車でヨークまで行って、そこからは馬車で」
 疲れそうな予定だった。 窓をきちんと閉めても、どこからともなく煙が這いこんできて眼と喉が痛い。 向かいの座席に座っていた人のよさそうなおばさんが、セーラと視線が合うと乗り出すようにして話しかけてきた。
「薄着だね。 かわいいほっぺが霜焼けで赤くならないように、ショールを買って巻いたほうがいいよ」
「ありがとう」
 セーラも気さくに答えた。 植民地で育った彼女は、本土の娘たちのように気取った用心深さを身につけてはいなかった。


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