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・・・貿易風・・・ 16

 びっくりして振り向いたセーラの眼に、珍しく真っ赤になって蒸気のように息を吹いているヒースが映った。
「まあ、どうなさったの?」
「いやあ」
 ふいごのような声が答えた。
「ドアが開かなくなりましてね。 押しても引いてもびくともしない。 ガタガタさせていたら、甲板員が気付いてノブを外して開けてくれましたよ」
「壊れていたんですか?」
「鍵穴にハンダが詰まっていたとかで」
 トロイが口に手を当てて小さく咳をした。 横顔が火照っているので、笑いをこらえているのがわかった。
 この人が細工したんだ――こういうのを罪のないいたずらと言うのかどうか迷いながら、セーラは曖昧〔あいまい〕に慰めた。
「抜け出せてよかったですね」
 トロイの肩が揺れ始めた。 彼には見向きもせず、ヒースは優しい笑顔に戻ってセーラに手を差し出した。
「最後のダンスになりそうですが、一曲だけお相手を願えますか?」
「ええ、喜んで」
 二人が軽やかに遠ざかっていくのを、トロイは笑いを消して見守った。

 トロイが上手に踊るのは納得できたが、一見ぼさっとした鉱山技師のヒースまでが優雅にワルツをこなすのには、正直言って驚いた。 ロンドンのボビー〔=制服警官〕の仮装をしたヒースは、帽子の下から流れる汗をものともせず、天馬のようにステップを踏んだ。
「ダンスがお上手ですね」
「ヒースさんこそ。 その立派なお髭がなければ本当のダンディですわ」
 甲板を半周して、トロイの立ち位置から声が聞こえないほど遠ざかったとき、ヒースはふと真面目な表情になって、銀色に輝くセーラの瞳を注視した。
「タウンゼント航海士が好きですか?」
 前触れもなく核心に触れられて、セーラは無意識に体を硬くした。
「さあ、わかりません。 まだお会いして間もないし」
 正直な気持ちだった。 魅力的だとは思う。 だが恋かどうかはわからなかった。
 少し冷たい口調になって、セーラは尋ねてみた。
「愛情って少しずつ育っていくものだと思うんですが。 ヒースさんは一目惚れを信じているんですか?」
 ヒースは虚を突かれた表情になった。
「なるほど。 あなたは若いが、ぱっと燃え上がる気持ちを信じないんですね」
「初対面でもう夢中になってしまうなんて、ただの錯覚だと思います」
 なぜか意固地になり、セーラは自分で思った以上に強く言い切った。


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