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・・・貿易風・・・ 10

 猛烈に強い日光を避けるためだろう。 その若い男性は、頭に藁で編んだダラッとした帽子を被っていて、どことなくユーモラスだった。
 口の周りをぐるっと覆っている薄茶色の顎鬚を動かして、彼はまた話しかけてきた。
「貿易風っていうのは、一年中絶え間なく東から西へ吹きつづけている風のことです。 太平洋の海面気圧は、地球が自転する関係で西が低く東が高いんです。 だから特に赤道近くの海では、東風が吹くというわけで」
 この人、学者かしら――真面目な顔で気象の説明をする男の飄々とした話し方に、セーラは好感を持った。 少なくともこの人は、わざと狭い書類棚へ探し物に行かせて、背後から抱きすくめようとしたりするタイプじゃない。
「じゃ、この風は私みたいなものですね。 東の国から西の国へ吹き寄せられていくんだから」
 また飛びかけた帽子を固定するために、しっかり顎のリボンを結び直しながら、セーラは明るい声で答えた。 返事がもらえたのでほっとしたらしく、男は進み出てきたが、寄り添って立とうとはせずに、甲板の少し離れた位置に両手をついて、賑やかな町をゆっくりと見渡した。
「活気のある港ですね。 いつも何かが動いている」
「ボンベイは初めてですか?」
「ええ」
 デッキブラシのように密生した髭が割れて、微笑の形になった。
「来たときはインドシナ半島から陸路で入ったので」
「私も初めてです。 私はマドラス生まれのマドラス育ち。 故郷を出たのは女学校に行っていた短い間だけです」
 不意に胸がしくしく痛んできた。 戻りたかった。 入り組んだ路地の先、母のいるあの小さな下宿へ、空を飛んででも。
 男は、おかしな形をしたパイプを取り出して口にくわえたが、すぐ気がついてセーラを振り返った。
「いいですか、吸っても?」
「どうぞ」
 セーラは上の空で答えた。 硫黄マッチをすって火をつけると、男はパイプを手に持ったまま、自己紹介した。
「ヒース・トラヴァースといいます。 鉱山技師です」
 襲ってきたホームシックに涙ぐみそうになっていたセーラは、慌てて応じた。
「ヒュ……ケンプです。 セーラ・ケンプ。 親戚に会いにイギリスへ行くところなんです」
 危なく本名を名乗ってしまうところだった。 動揺しているセーラに気付かぬ様子で、トラヴァースは軽く頭を下げた。
「どうぞよろしく。 長い旅になりますからね、話し相手になってもらえると有難いです」
「こちらこそよろしく」
 セーラがぎこちなく差し出した手を、トラヴァースは暖かく乾いた手で握り返した。


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