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・・・貿易風・・・ 8

 船が出るのはボンベイだから、マドラスから急行列車に乗っても三日半かかる。 途中で遅れることを考えに入れて、翌日には出発しなければならなかった。

 出かける日の朝に、セーラはセント・メアリーズ教会へ行き、ひざまずいて神に祈った。
――どうぞ無事にイングランドに着きますように。 そして必ずまた、この地に戻ってこられますように――
 家路をたどっていると、その姿を目にして角の喫茶店からメイヤーが急いで出てくるのが見えた。 とたんにセーラの心は自分でも驚くほど滅入った。
 この故郷、耐えがたいほど暑く猥雑で人いきれの凄い町を、セーラは心から愛していた。 半分しかインド人ではないが、それでも南インドに小さな根を下ろしているつもりでいた。 この土地から切り取られたら、命が萎えてしまうのではないかと不安だった。
 どんなに懐かしく思うだろう。 街じゅうにたむろして口をもぐもぐさせている痩せ牛、水汲み場で騒ぎまわる子供たちの歓声、そして忙しく行き交う二輪牛車の群を。
 セーラの気後れを見越していたらしく、メイヤーはきっぱりとした態度でやってきて、強引に封筒を押しつけた。
「残金です。 いいですか。 もうあなたは半分前渡しされてるんですよ。 行くしかないんだ」
 そう……もう行くしか道はなかった。

 家に戻って用心深く戸を閉め、中身を確かめると、きっちり百ポンド入っていた。 その金に前金を足して、セーラは母の『隠し箱』に収め、前の晩に書いておいた手紙を、使い古してガタガタするテーブルの上にそっと載せた。
 母は市場へ働きに行っている。 セーラが教会に行く前、いつも通り出勤したので、何も気付かなかったのだ。 出かけるところを母に見送られたくなかった。 きっと耐えられなくなって逃げ帰ってしまう。 目の前に姿を見ていて、とても離れることなんてできなかった。
 ブルッと体に武者震いに似たものが走った。 『セーラ、あんたは強いはずよ』という声がどこからともなく聞こえた。 『お父さんが掴まったとたん、友達も近所の人も離れていった。 それでもあんたは自分で手続きしてさっさと学校を辞め、下宿と仕事を自力で探し、お母さんをここへ連れてきた。 頑張った自分を誇りに思うべきよ。 そして、どこへ行っても同じように胸を張って生きるの』
 事務所での所長の反応を思い出すと、ちょっと胸がすっとした。 にこやかに歩み寄って辞表を出し、一か月分の給料をきちんと払わなければその足で奥さんのところへ行って、誘惑されたと言いつけてやると、丁寧に仄めかしたときのことを。
「だって決まりだもの」
 セーラは自分の良心に言い聞かせた。
「当然でしょう? 退職金は一か月分よ」
 不意に辞めたときはその限りではないが、あの所長からちょっとばかり余計に取っても心は痛まなかった。

 小さめのカーペットバッグを下げてセーラが扉に鍵をかけていると、すっとメイヤーが横に立って荷物を持ってくれた。 二人は黙々と路地を歩き、表通りで馬車を拾って、中央駅へと走らせた。


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