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・・・貿易風・・・ 7

「ほら、これが乗船券よ。 ちゃんと向こうで勉強してくるから。 手紙を書くから」
「でも……」
 セーラは思いついて、弁護士の名刺を母に渡した。
「ほら、この人。 彼も同じ船に乗るの。 親切な人よ」
 名刺に穴があくほど目を据えながら、ジャナは口ごもった。
「まさか……この男と駆け落ち?」
 セーラは噴き出してしまった。 それまで緊張していただけに、神経質な笑いが止まらない。 腹が痛くなるほど笑い転げた。
「いやだわ! 絶対ないって! メイヤーさんはこんな頬鬚生やしてるのよ。 お父さんと同い年ぐらいなのよ!」

 ジャナは明らかに、セーラのあやふやな口実を信じていないようだったが、どうしても行きたいという娘を無理に引きとめようとはしなかった。
 セーラは翌々日の日曜日、市場を早引きした母と連れ立って、買い物に出た。 細々した日用品を揃え、新しい靴と帽子を手に入れた後、セーラが向かったのはドレスショップだった。 メイヤーが一つだけ買い物に注文をつけていたのだ。
「船旅は長いですから、いろんな退屈しのぎの催し物があります。 イヴニング・ドレスとショールは必需品です。 必ず買っておいてくださいね」

 初めてのきれいなドレス――セーラは店員が次々出してくるレースやフリル、カットワークの洪水に目を奪われて、しまいにどれを選べばいいのかわからなくなってきた。
 母はさすがに冷静に、セーラに似合う色を見極めていた。
「あなたには白、クリーム色に淡いブルーね。 髪が黒いから、濃い色のドレスだと印象が暗くなる。 どう? この象牙色は?」
 それは肩章のように首から胸にかけてドレープの入った、すっきりしたドレスだった。 さりげなく品がよく、押し付けがましさがない。 セーラも一目で気に入って、その服にすることにした。
「サイズのお直しは?」
「自分でやります。 いくら?」
「十一ポンド五シリングでございます」
 ジャナは引っくり返りそうになったが、セーラは手提げから現金を出して、さっさと払った。

 家に帰ると、さっそくジャナはドレスのウェスト直しに入った。 器用な指先で脇を詰めて縫っていく。 ランプの火を大きくして、セーラも横に座った。
 針を細かく動かしながら、ジャナは感慨深げだった。
「こういう服を着てデビューさせてあげたかった」
「じゃ、船で着るとき、そのつもりになるわ」
 縫い終わると、ジャナは部屋の隅に行き、煉瓦を動かしてその奥から長方形の箱を取り出した。
「これはね、結婚のときあなたにあげようと思って取っておいたの。 このドレスは襟元が大きく開いているから、アクセサリーが要るわ。 持っていきなさい」
 そう言ってジャナが箱を広げると、中には象牙に細かい彫り物をしたネックレスと、大きなルビーを加工したペンダントがきちんと並べられていた。
「お母さん……」
 セーラは胸が苦しくなった。 これは売り食い生活の中で、母が大切に守ってきた最後の宝石なのだろう。 それなのに、はっきり理由も告げないで出ていく娘のために、洗いざらい渡してくれようというのだった。


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