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・・・貿易風・・・ 6

 最初の出会いから四日後、メイヤー弁護士はきちんと、セーラを喫茶店で待っていた。 そして、ボンベイ銀行の裏書がある額面百ポンドの小切手を彼女に渡した。
「半額を前渡しにしておきます。 残りは船に乗るときに。 それから、これは乗船券」
 セーラの顔が緊張に強ばった。 もう後には引けない。 いよいよ母に出発を告げるときが来たのだ。
 神経質に券を引っくりかえして眺めながら、セーラは小声で尋ねた。
「父親はダグラス・ウィルマー・ケンブ、母親はシャルダナ・ラースですね?」
「そうです」
「では、娘の私は何という名前なんですか? どこを探しても資料には出ていなかったようですけど」
 弁護士は、ゆっくり顎鬚を撫でて微笑んだ。
「それがね、選ぶ基準の一つでもあったんですよ。 実は、娘さんの名前はあなたと同じ『セーラ』だったんです」


 その夕方はにわか雨が降り、濡れた街路が気化熱を奪って、いくらか過ごしやすい気温になっていた。 胸に痛いものを抱えながらセーラが下宿の門をくぐったとき、母のジャナがにこにこして顔を覗かせた。
「お帰り。 今日はお給金が出たから、あんたの好きなアッサム・ティーを少し買ってきたわよ」
 その明るい声を聞いたとたん、セーラは涙ぐみそうになって、あわてて笑顔を作った。
「すごい! あのね、私にもいい話があるの。 マフィン出してくるね。 晩御飯の後、ゆっくり話しましょう」


 セーラは、くつろいでいる母の横で、できるだけゆっくり食事を取った。 女学校のときカルカッタの寄宿舎に入っていたから、母と離れるのは初めてではない。 それでも今はあのときとは事情が違った。 二年前には父がいた……
 ナプキンを膝に置いて、肩でひとつ息をつくと、セーラは心を決めて切り出した。
「ね、お母さん。 事務所から、特別な仕事を命じられたの」
「どんな?」
 食後の紅茶を入れながら、母は首をかしげるようにしてセーラを見た。 セーラは必死にうまい言い訳を作り出そうと努力した。
「あのね、本土へ行って、最新の帳簿のつけ方を勉強してくることになったのよ。 期間は半年」
 そのぐらい見ておけば充分だろうと、セーラは考えていた。
 ジャナの手が止まった。
「半年? そんなに長く?」
「ええ。 行き返りの船旅を入れると一年ぐらいになるわ」
 急ごしらえで、我ながらあまりいい口実ではないように思えた。 案の定、ジャナは心配そうに椅子に座りなおした。
「丸一年も独身の娘を派遣するの? それって」
「怪しい話じゃないわ」
 あわててセーラは母の言葉を遮った。


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