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・・・貿易風・・・ 5

 一度心を決めると、世界が違って見えてきた。 これまでのように首にならないかびくびくしながら事務所に通う必要はなくなったのだ。 セーラは堂々と振舞うようになり、雇い主の誘いをきっぱりと断ることができた。
 ワット氏は、最初腹を立てて嫌味をねちねち言ってきたが、セーラが知らん顔をしていると、逆に扱いがていねいになった。
 その変わりようを見ていた事務員のジョンストンが、書類を揃えて袋に入れているセーラの近くを通りかかったときに、小声で耳打ちしていった。
「その調子。 小さくなっていることはないんだよ。 君みたいな優秀な秘書を安い給料で雇えて、得をしてるのは所長のほうなんだから。
 今度勝手なことを言ってきたら、きっぱり言ってやりなさい。 賃金を上げないと他所へ行くってね」
 そっと微笑を返しながら、セーラは心の中でうなずいていた。 その通り。 辞めます、と宣言するときのワット氏の反応を、彼女は今から楽しみにしていた。

 夜、自宅へ帰ってからは、渡された書類をせっせと読んだ。
 ケンプ家はヨークシャーのリーズ郊外に居を構える素封家だった。 ローデシア(=現在の南アフリカ共和国)にある鉱山の権利を持っているらしい。 五代目のジョージ・クラレンス・ケンプは四年前に五十九歳で死に、現在屋敷に住んでいるのは未亡人のジェニファーだけとなっていた。
 ダグラスは長男だ。 顔立ちはごく普通で、身長も人並み。 髪はおとなしい茶色。 ただ、非常にくっきりした青い眼が見る人に強い印象を与えたらしく、実際に会ったことのある人たちはみな、なかなかの美男子だったと形容していた。
 その眼にものを言わせたのかどうか知らないが、ダグラスは当時ロンドンで大人気だったインド系の歌姫シャルダナ・ラースと恋に落ち、婚約した。 保守的な両親は大反対で、正式に結婚したらただちに勘当すると宣言した。
 大喧嘩の末、ダグラスは家を出た。 今から十九年前のことだ。 ほぼ時を同じくしてシャルダナも姿を消し、ダグラスとの駆け落ちを噂された。

 読み終わると、セーラは深く息をついて書類を机に置き、立ち上がって窓から街路を見下ろした。 もう九月の末になっていたが、一年中夏と言っていいこの地方では、日がとっぷり暮れても気温は二十五度を下らず、道の端に涼を求めて何人もの人が寝転がっていた。
 イギリスはきっと寒いだろうな、と、セーラはとりとめなく考えた。 来週出かければ、到着はたぶん二ヵ月以上後になる。 冬服にコート、マフラー、マフ、それに底の厚いブーツが必要だ。
 この暑い土地にそんなもの売っているだろうか。
 思いは様々に流れ、いろんな方向に飛び散った。 母に出発をどう説明しよう。 イギリスの食べ物はまずいと聞いたが果物はあるのだろうか。 じき冬になるけれど、雪は降るのか……
 雪……話には聞いているし、絵本で見たこともあるが、実際にはどんなものか、今ひとつ想像できなかった。 そもそも寒さというものさえ、セーラにははっきりわかっていなかったのだ。
――これは本当に冒険だ――
 妙に胸がときめいた。


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