表紙
明日を抱いて
 200 恋と別の恋




 不意にジェンの目がちかちかしてきた。 砒素〔ひそ〕、という文字だけが邪悪な光を放って、手紙の文面から浮き出てくるように感じられた。 砒素は猛毒だ。 普通は白い粉として売られていて、臭いも味もほぼない。 昔から暗殺に使われていて、イタリアの有名なボルジア家では主に砒素を使って政敵を次々と毒殺していたという話だ。


『最初は信じられなかった。 母の体が弱っていくのは、胃弱だからだとばかり思い込んでいたから。 でも医学書を調べてわかったの。 少しずつ飲ませれば、そういうふうに見えるし、医者も誤診しやすいって。
 でも、一度納得してからは、犯人はすぐわかったわ。 母の一番傍にいて、夜のミルクを運ぶ人。 わずかな愛情の表れかと思っていたけれど、まったく逆だったんだわ。
 狙いは母の財産よ。 不思議に思うでしょう? 母の実家は確かにお金持ち。 でも父だって親から莫大な遺産を引き継いでいるんだから、そこまでしてお金をかき集める理由は何なのか。
 実は父には野心があるの。 州都ランシングの市長選挙に出るつもりなのよ。 そして当選したら、いずれはミシガンの州知事を狙っているの。 選挙には莫大な費用がかかるわ。
 でも母の引き継いだ財産は、ほとんどが信託財産と私へ譲る遺産になっていて、立派な弁護士が管理しているから父の自由にはならなかったの。』


 ジェンは目を覆いたかった。 大富豪が今度は権力を求めて、妻の金を狙っていたなんて。 吐き気がした。


『実の親ながら、警察へ告発したいと願った。 でもクリスが調べて、残念ながら証拠不十分で却下されてしまうと教えてくれた。 砒素はネズミ殺しの薬で、ほとんどどの家にも置いてあるから、父が堂々と店へ行って買いでもしないかぎり、特定できないんですって。
 そのとき、私の心は決まったの。 法律で裁けないなら、父の一番の夢をつぶしてやる。 大スキャンダルを起こして、立候補できないようにしてやるって。
 それですぐ行動を起こしたわ。 まずクリスとお義母さまに相談した』


 ここでジェンは、きょとんとなった。 クリスは他ならぬエイプリルの夫じゃないか。 妻に駆け落ちなんかされたら、誰よりも悔しい立場のはずだ。 それなのに、相談?!


『筋が違う。 そう思うでしょう? 普通なら、もちろんクリスが一番の被害者になるはず。
 でも私たちは違ったの。 お互いに、ぎりぎりのところで助けを求め合った共犯者だったのよ。
 告白するわ。 驚かないでね。 あのすばらしい夏の後、私とディックは結ばれたの。 そして私は身重になった。
 父にわかったら、殺されていたかもしれない。 少なくとも、子供を始末するために闇医者のところへ引っ張っていかれたでしょう。 その前に、私は必死でフィリーに電報を打って、それから手紙のやりとりでクリスとの縁談をまとめたの。 彼も命が危なくなりかけていて、前から相談されていたからよ。
 ジェン、あなたとマージは私の知る友達の中で誰よりも口の固い人。 これはクリスの秘密で私のではないので、絶対に口外しないでね。
 クリスは同性しか愛せないの。 これがどんなに危険か、あなたにはわかると思う。 イギリスでは牢屋に入れられて鞭打ちの刑よ。 そしてアメリカではそれ以上。 たいてい殺されてしまうわ。
 それなのにクリスの恋人は、彼が恋しいあまり、しょっちゅう会いたがって酒に溺れるようになっていたの。 いつ口を滑らせるかわからない状態で、お義母さまは心配で夜も眠れないぐらいになっていたわ。
 幸い、彼は名門だった。 だから父は何も知らず、いい応援団ができたぐらいに思って、結婚に賛成した。 私が毎晩のようにクリスの恋人を秘密の通路から招きいれていたとも入らずに』





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