表紙
明日を抱いて
 190 夫人の素顔




「あの、エリーですか?」
「そう」
 すぐ傍に近づいてきて、柔らかな香水の香りが嗅げるほどになったエリザベスは、褐色の眼を細めて夫の娘をまっすぐ見た。 その視線には、たじろぎも嫌悪感もまるでなかった。
「私ね、子供のときから一度も省略して呼ばれたことがないの。 常にエリザベス。 夫もよ。 たまにふざけて呼ぶと、妙に気まずい空気がただよってね、すぐ止めちゃうの」
 そういえば。 ジェンはたじたじとなりながらも、エリザベス夫人の立派な顔立ちを表せる仇名を考えてみた。 イライザ、リサ、ライザ、ベス、ベッシー、リスベス、リズ、リジー、そしてエリー。 だめだ。 全部合わない。
 夫人の顔立ちは、どれも少し立派すぎるのだった。 眼光鋭い眼、秀でた額、整った眉毛、いくらか長すぎる鼻、少年像のような弓形の唇。
「イライジャというお名前だといいですね」
 ぼんやり言ってしまってから、ジェンは舌を噛み切りたくなった。 イライジャは男の名前じゃないか!
 ところが、不意にエリザベス夫人の顔が明るくなった。
「まあジェン! あなたすごい! エリーだとかわいらしすぎるのに、イーリーだと雰囲気ぴったり」
「奥様?」
 エリザベスはじれったそうにジェンと強引に手を組み、楽しそうに歩き出した。
「そうだ、イーリーにしましょう。 それならきっとみんな呼んでくれるわ。 異国風で面白いし」
 そして小さくなっているジェンに命じた。
「イーリーと呼ぶのよ」
「はい」
「はい、イーリー」
 やけになって、ジェンはお腹から声を出した。
「はい、イーリー」


 信じられないことに、この愛称は瞬く間にメイトランド邸に定着した。 ふつうイライジャはイーライと呼ばれるが、そこをもじった中性的なイーリーという仇名を、エリザベスはひどく気に入ってしまった。
「イーリーって、すべすべしたとか逃げ足が速いとかいう意味なのに」
 ジェンはこっそりメイトランドに嘆いたが、彼は明らかに面白がっていた。
「それが好きなんじゃないかな。 全然すばしこくない人だから」
「エリザベスさんは個性的な方ね」
「子供のときから風変わりでね。 男だったらたぶん学者になっていたと思う。 でも親が無理に寄宿学校へ入れたんで、滑車を二つ使って三階の窓から逃げたんだ」
「まあ素敵」
 ジェンは、見るからに貴族的なエリザベス夫人の素顔に強い親しみを覚えた。
「何度入れても逃亡するから、とうとう家庭教師がつくことになり、学校にはあまり行っていない。 でも本は山のように読むし、あちこちの学者たちと付き合っていて、実力はすごいよ」
 そう語るメイトランド氏の口調は、賢い妹を自慢する兄のようだった。





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