表紙
明日を抱いて
 187 愛される子




 ジェンはそれからさらに一時間ほど、エイプリルと話を交わした。 エイプリルは故郷の話に飢えていて、小さな村のどんなささいな出来事でも、ジェンの口から直接聞きたがった。
「いつも手紙をありがとう。 すごく楽しみにしているのよ。 こうやってまた新しい話をあなたからじかに聞けると、いきいきと目の前に浮かんでくるわ」
 そう呟いて胸元で手を合わせたエイプリルの眼に涙が盛り上がった。 ジェンはびっくりして、新たに持ってきてもらった紅茶のカップを落としそうになった。
 以前のエイプリルはいつも明るかった。 家庭の中ではいろいろあったらしいが、決して外には持ち出さず、泣き顔など誰にも見せなかったのだ。
 ジェンが驚いているのに気づいて、エイプリルはすばやく指で涙を払い落とし、笑顔になった。
「もうこんな時間! 引き止めて悪かったわ」
「とんでもない。 会えてほんとにうれしいわ、エイプリル。 こちらに一週間いるんだけど、また来てもいい?」
「大歓迎よ!」
 束の間、エイプリルは昔の明るさを取り戻して手を叩いた。 それから身軽に立ち上がり、ジェンを招いた。
「最後にうちの娘に会ってやって。 女の子だけどすごく活発で大きいの」


 子供部屋は美しく飾られていたが、予想したより小さかった。 レースの天蓋つきの揺りかごに横たわった赤ん坊は母親似の金髪と、くるりとしたいたずらそうな眼が印象的な、実にかわいい子だった。
 傍にいた子守が立ち上がり、静かに報告した。
「十五分前におむつを換えました。 ご機嫌はずっとよろしいです」
「ありがとう、マイヤーズさん」
 エイプリルは威厳を持って答え、一言つけくわえた。
「少し外してください」
「はい、奥様」
 マイヤーズ夫人が静かに部屋を去った後、エイプリルはドアの傍まで行って板に耳を当てた。 それから足音を忍ばせてジェンのところに戻ってきて囁いた。
「よく立ち聞きしてるのよ。 あの人コルセットの締めすぎで、息が荒いからわかるの。 きっとお義母さんに報告するんでしょう」
 うちの中にもちょっとした敵がいるわけだ。 ジェンは暗い気持ちになった。
「お義母さんは今度のスキャンダルを……」
「怒ってるわ。 口には出さないけど、私が浮ついているから誤解されると思ってるみたい」
「失礼ね」
 エイプリルはふっと笑った。
「でも我慢してくれてるほうよ。 ともかく私が本当に浮気してるとは信じていないんだから」
 それから雑念を振り払うように赤ん坊を抱き上げた。 赤ん坊はまるまるとくびれのついた腕を振り上げて喜び、鳩に似たクウクウという声を出した。
「手紙にも書いたけど、私は母乳で育ててるの」
 エイプリルはきっぱりと言った。
「胸の形が悪くなるからやめなさいと、義母は言うのよ。 こんなにコルセットで持ち上げていて、形がどうのなんて言うほうがおかしいと思うんだけどね」
「母乳が一番よ」
 ジェンは熱くなって力説した。
「弟たちだって全部母乳で、ほとんど病気知らずで育ってるわ」
「そうよね〜。 たっぷり出るなら母乳に限るわ。 私の子だもの。 私の手で育てるの」
 ちょうど授乳の頃だったので、エイプリルは椅子に腰掛け、ディアドラに乳を含ませた。 どんな教会堂の聖母子像より美しい、とジェンは思い、傍に腰掛けて乳があふれないよう助けた。
「ジェンは私よりずっと経験豊富だから、助かるわ」
 エイプリルが笑いながら言い、上手にディアドラにげっぷさせた後、ジェンに抱かせてくれた。
 見た目のとおり、ずっしりとした重さが手に伝わった。
「うまく育てているじゃない。 こんなに体がしっかりしていて、機嫌もよくて」
「親孝行の良い子なの。 ね、ディア・ドーラ(いとしいドーラ)?」
 そう言いながら、エイプリルは赤ん坊のウェーブした髪に唇を押しあてた。
「お義母さんはこの子が女の子でがっかりしているの。 でも私は嬉しかった。 天にも昇る心地だったわ。 だって跡継ぎだったらきっと、まだ幼いうちに私の手から取り上げられて、エリート教育だか何だか受けさせられて、遠い人になってしまうから」
「普段はドーラと呼んでいるのね」
「そう、私のいとしいドーラ」
 その呼び方に、ジェンはかすかな違和感を覚えたが、理由はそのときには気づかなかった。





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