表紙
明日を抱いて
 186 交差する心




 それからエイプリルは、気が進まない様子でひとりの社交紳士の話を始めた。
「ハロルド・ブルックスという人がいるの。 彼は、何というか、人妻が好きで」
 思わずジェンは顔をしかめた。ミシガンの町では存在さえ許されないヤツだ。 他人の奥さんを狙ったりしたら、最悪には夜明けに死体で発見されても文句は言えない。
「イギリスの社交界の悪いところを学んでいるらしいわ。 貴族社会ではほとんどが家柄で結婚するでしょう? だからお互いに不満が爆発しないよう、隠れた浮気は許されてしまうんだって」
「そいつがよりにもよって、あなたに目をつけたの?」
 エイプリルは疲れた顔でうなずいた。
「最初は軽く受け流していたの。 でもどんどんしつっこくなって、私が招待される夜会や劇場に必ず現れるようになって、もう顔も見たくなくなってね。 それでクリスに打ち明けたのよ。 その後一週間、クリスはどこへ行くにも私をエスコートして守ってくれた」
「いい旦那様ね」
「そうなの」
 エイプリルはぼんやり答え、天井を仰いだ。
「それで私たちが本当に仲がいいのが、ブルックスに伝わったようなの。 おかげで半月ぐらい彼の姿を見ずにすんでホッとしていたら、いきなりこのスキャンダルが巻き起こって」


 ジェンは、少しやつれてもなお美しい親友の横顔を眺めた。 そして、今の話とつなぎ合わせて、ハロルド・ブルックスなる人妻たらしがどんな状態になったか、不意に悟った。
「そのブルックスという人、生活には困ってないのね?」
「ええ。 お父さんも母方のお祖父さんも富豪で、銀のスプーンを二本もくわえて生まれた男よ」
「そこそこ顔立ちもいいんでしょう?」
 エイプリルは形のいい鼻にしわを寄せた。
「まあそうなんでしょうね。 私はあんななよなよしたタイプ好きじゃないけど」
 やっぱり。 何不自由なく恵まれた男だ。 しかも無責任で、結婚して縛られるのがいやで人妻と遊んでいた。 そんな男が初めて、真っ逆さまの恋に落ちたらどうなるか。
「その人は今頃になって、初恋をしているのかも。 それも逆回りの恋を」
「え?」
 苦い思いから覚めて、エイプリルは目を丸くして座りなおした。 彼女はジェンより実際的な性質で、昔から詩や小説にはあまり興味がなかった。
「すてきな言い方だけど、よく意味がわからないわ」
「いつものようにキザな申し出をしているうちにあなたの値打ちがわかってきて、本気で好きになったんじゃないかな。 でも、もう嫌われた後で、おまけにあなたはドレクセルさんと仲が良かった」
 そこでジェンは一息ついた。 これからは想像になってしまう。 でも間違っているとは思えなかった。
「初恋のときって、こっそり好きな人をつけていったりするわよね。 彼もそうしてたんだと思う。 姿を消したように見えた半月の間。 
 それで公園にいたあなたを遠くから見つめていたら、若くてすてきな男性があなたのハンカチを拾った。 そしてきっと、あなたは笑顔で感謝した。 ブルックスさんにはもう永久に向けられない笑顔で」
 エイプリルはゆっくりと後れ毛を細い指先で撫でつけた。 それから低い声で言った。
「ジェン、あなた恋をしたら、千里眼になったみたいね」





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