表紙
明日を抱いて
 175 言えなくて




 翌朝早く、ジェンが七時二○分に待ち合わせ場所へ行くと、男性二人はもう来ていた。 三人はタクシーを拾ってニューヨーク行きの汽車にうまく乗り込み、プルマン料金を払って、食堂車で温かい朝食にありつくことができた。
 ジョーディの口数が少なかったため、ジェンは自然にアルフと話をするようになり、彼がパイプオルガンの公式奏者になる夢をあきらめかけているのを知った。
「努力はしてみたんだよ。 だが仕事しないで、毎日何時間もオルガンの前に座って練習三昧ってわけにはいかないし、町で勉強できるほど金は貯まらない。 それに年だって、もうじき三○だ」
 そう言った後、アルフは独特な魅力のある眠たげな眼を細くしてほほえんだ。
「助けると言ってくれた人はいたよ。 たとえばエイプリルだ。 高校へ進学するときに僕のところへ来て、ボストンにすばらしいオルガンの先生がいるから、技術の仕上げをしてもらってデビューしたら? と勧めてくれた。
 でもね、もうあれ以上、あの子を犠牲にできなかった。 友達のために何か頼むたびに、あの父親は条件をつけるんだ。 まるで奴隷使いさ。 この温厚な僕でさえ、何度殴ってやろうと思ったか数え切れない」
 そう言って、アルフはユーモラスにウィンクした。 ジェンも微笑を返したが、胸が痛んだ。 あんなすばらしい娘を授かったのに、トマスは彼女の値打ちを美しくて賢いことだけだと思っている。 どちらも大きな素質ではあるが、それ以上にエイプリルには、人を愛して幸せにしたいと願うおおらかな心があった。 身も心も弱い母と、横暴で利己主義な父の間に生まれて、どうしてあれほど素質がいいのか、本当に不思議な話だった。
 アルフの打ち明け話を聞いているうちに、ジェンは頭の中で計画を立て始めた。 ゲインズフォード中学の用務員として面倒見のいいアルフは、生徒たちに人気がある。 特にジェンの学年は彼がエイプリルと仲良しだという事情もあって、アルフに特別な親しみを抱いていた。
「ねえアルフ、今年で勤続何年になる?」
 不意に話が変わったので、アルフは戸惑いながらも教えた。
「十年だ。 そうか、もうそんなになるんだな。 訊かれるまで気づかなかった」
 区切りのいい年だ。 彼のために慰労会を開いて、献金を募ることができる。 そういう計画が得意なエイプリルはいないが、しっかり者のサリーなら、きっとやってくれる。
 ジェンは、これまでいろいろ力になってくれたアルフを励ますためにも、せめて皆で応援していることを示せたらと願った。


 列車は順当に運行し、十一時前にはロウワー・ニューヨーク港に着くことができた。 ここから巨大旅客船が船出して大西洋を渡り、ヨーロッパを目指すのだ。 出航は十一時三九分の予定だったが、大きな船はよく遅れるので、三人はのんびりしていた。
 ジョーディの荷物は、遠い外国に行くにしては驚くほど少なかった。 中型のトランク一つと肩掛けバッグだけだ。
「旅は慣れてるんだ。 親父とあちこち行ったし、曲技団でもしょっちゅう巡業してたから」
「でも一人は初めてね」
 ジェンは声をふるわせないようにするのがやっとだった。
「怪我と病気には気をつけてね」
 アルフが気をきかせて、屋台の熱いリンゴサイダーを三人分買ってきた。 それで別れの乾杯をした後、また話そうとしていると、不意に大声の知らせが耳に届いた。
「間もなく出航で〜す! お客様はすぐに乗船お願いしま〜す! 見送りの方はただちに船から降りてくださ〜い!」
 えっ? ジェンは耳を疑った。
「だって、まだ時間前よ!」
 ジョーディが急いで懐中時計を取り出して、表情を変えた。
「しまった。 いつの間にか止まってる!」
 アルフも塗装のはげた時計をポケットから引き出し、眼をこらした。
「うわあ、もう十一時三八分だ」


 ジェンは悪夢の中にいるような気持ちになった。 汽車を降りるとき、ジョーディは念のため、駅の時計と自分のとを合わせていた。 そのときは確かに動いていたので安心していたのに。 なんという運命の皮肉だろう。
 何も言えなかった。 言う時間がなかったわけではないのに、勇気がなかなか出せなくて、最後の最後まで引き伸ばした結果、本当に時間切れになってしまった。
 身をひるがえしてタラップを上っていくジョーディの後姿を、ジェンは茫然として見送った。
 その途中で、ジョーディの足が止まった。 そして、飛ぶように降りてくると、ジェンの手に封筒を押し込み、切れ切れの声で言った。
「故郷へ帰ってから……読んでくれ。 君の気持ちが静まったときに。 ここまで来てくれてありがとう」
 そして、全速力で船上の人となった。






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