表紙
明日を抱いて
 173 最後の努力




 こんなときでもジェンの生まれつきのユーモア精神が動き出し、思わず微笑んだ。
「誘惑なんかしなかったじゃない。 こっちも良心にかけて誓えるわ。 あなたに追い回されたり、甘い言葉を囁かれたりしたことは一度もないって」
 笑顔でそう言い返しているうちに、突然涙があふれそうになった。 ハウイは口下手だが、いつも想いのこもった眼でマージを見つめている。 そして、生木を裂くようにエイプリルと別れさせられたディックは、きっと情熱的な愛の言葉を始終語りかけていたことだろう。
 とっさに眼を伏せ、苦悩をうまく隠したジェンは、静かに続けた。
「あなたを信じるわ。 本当よ。 それにこっちのお父さんも信じる。 あの人は、あなたを使ってお母さんたちから私を取り上げようとするような人じゃない」
「その通りだ」
 ジョーディは力を入れて答えた。
 でもあなた自身は、お父さんのために努力したかもしれない、とジェンは考えた。 私を花嫁として東部に連れてくれば、彼は喜ぶだろう。 血のつながった娘が家を継ぎ、ジョーディのような立派な青年との間に跡継ぎを産むとすれば。
 黙ってしまったジェンを、ジョーディはじっと見つめた。 顔は無表情だったが、眼はかすかに血走っていた。
「どっちにしても、僕は婚約したとき、正直じゃなかった」
 ああ、やめて!
 小さな悲鳴がジェンの心に広がった。 この場で婚約破棄だけは、してほしくなかった。 たとえ夢がつぶれても、彼を今すぐ失うのは耐えられない。 立ち直る時間がほしい。 それにもしかしたら、友達夫婦でも波風の立たない穏やかな家庭が作れるかもしれない。 あなたがチャンスさえ与えてくれたら!
 いつも現実を受け止め、最悪を覚悟してきたジェンだが、今度は逃げを選んだ。 手袋が破れそうになるほど強く指を握りしめたまま、言葉を継ごうとしたジョーディをさえぎって、先に提案した。
「この場でそのことを話し合うのはやめましょう。 まだ頭が混乱しているの。 ミシガンに戻るのは明日の夕方で、まだ一日あるわ。 一晩考えさせて」
 ジョーディはすぐに答えなかった。 うつむいて腕を後ろで組み、大きなフランス窓の前を二回往復した。 それからまた顔を上げ、どこか虚ろな声で言った。
「きっと君は許さないだろうと思った。 僕は他にもウソをついていたしね。 みんな見た目でわかってたみたいだが、僕は君たちと同い年じゃない。 もうじき二一歳なんだ」
 ディックより年上だったんだ、とジェンはぼんやり考えた。 年齢などどうでもよかったが。
 柱に手をついて足を止めると、ジョーディは口から押し出すように言葉を継いだ。
「だからイギリス行きの乗船券を買った。 明日の昼にニューヨーク港から出る。 英国庭園と東屋について勉強したい。 建築家になるために、前から希望してたんだ」
 ジェンは反射的に立ち上がった。 青ざめていくのが自分でもわかった。
 彼は初めからそのつもりだったのだ。 ジェンに自分の正体を見せて愛想をつかすのを期待していた。 そうなれば自由の身になって、好きな仕事を学びに留学できる。
 生まれて初めて、ジェンは人を引っぱたきたいと思った。 彼を叩いて部屋から出て行って、ゴミを捨てるように簡単に忘れてしまえたら、どんなにすっきりするだろうと思った。
 だがそのとき、不意に何年も前、占い師に言われた言葉が心によみがえった。 私はあなたのほうが、こっちのお嬢さんより心配だ、と占い師は言った。 好きになるのを怖がってると、あっさり失ってしまうかもしれないと、そう言われた。
 あの占い師は、エイプリルの恋の終わりをずばりと当てた。 まだ希望はあるなんて妙なことを言ってはいたが。 ジェンは絶望しそうになる中で、あの予言にしがみついた。
「お父さんは承知なの?」
「いや、黙って行くつもりだった」
 ジョーディは鈍い声で答えた。
「嫌になったら、いつでも自分の道に進んでいいと言われているんだ。 でもこれで養子の話がだめになって当然だと思う。 別れの手紙を書くよ」
 じゃ、一人で旅立つのね── ジェンは彼のほうに一歩近づいた。 だが傍まで行って触れる勇気は、もうなかった。
「私……見送りに行くわ」
 ジョーディは仰天した。 ジェンは彼の驚きを気にしないようにしながら、必死で自分に言い聞かせた。 船というものは、出航するまでえらく時間がかかる。 その間に、最後の努力をしてみよう。 思えば私は、自分から彼を求めたことは一度もなかった。 どんなに好きで大切に思っているか、ちゃんと伝えていなかった。
 





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