表紙
明日を抱いて
 140 本当の恋は




「ちがうちがう!」
 コニーはあわてて手を振った。 動作が大きくなったので、抱かれていたウォーリーが首を曲げて母親を恨めしそうに見上げた。
「あ、ごめんなさいウォーリー。 大丈夫よ、お母さん口下手で」
 あやす声が次第に湿った。 泣くまいとしたが、どうしても涙がにじんでくるようだった。
「襲われたことはないわ。 ただ、つきまとわれたの。 そんな言い方失礼かもしれないけど、そういう人は目でわかるのよ。 私に気づくと急に輝き出して、まばたきもしないでじっと見つめてくるの。  私には無理だった。 一度でいいから踊ってください、月影の下で散歩しましょう、なんて言われても、私……」
 月影の下だって? ずいぶんロマンティックな誘い方だ。 母の前に出ると、男性は詩人になっちゃうんだろうか。 ジェンは強い情熱に耐えられない母を、数少ない理解者の眼差しで、やわらかく見つめた。
「ママは……ヒルダおばさんは、お母さんの気持ちがわからなかったみたい」
「ええ、そう」
 コニーは小さくため息をついた。
「ヒルダは人見知りなんかしない人だから。 昔から十分の一でも、あの強さが欲しかった」
「お母さんは普通に扱ってほしかったんじゃない? 月だ、星だって言うんじゃなく、なんていうか、友達みたいにさっぱりと」
 そう口に出した瞬間、ジェンの頭をきらめく川面がよぎった。 目も止まらぬ速さで水中を行きかう元気な魚たちと、さらに早く矢のように突進してくるカワウソたち。 その様子を、白い歯を見せて嬉しそうに眺める大柄な少年。
 今年の夏、ジョーディはトレメイン川に姿をみせなかった。 今すぐジョーディに会いたい──ジェンは次の瞬間、心の底から願った。 そして思った。 彼が一度でも、月影の下の散歩に誘ってくれたら、と。
 コニーはうつむき加減になって、しばらくウォーリーを揺すっていた。
 それからぽつぽつと語りだした。
「ビルは、そういう人だった。 すごく普通で、あっさりしてて、頼もしかった。 したくないことは、しなくていいんだよ、と、さらっと言ってくれた。 嫌なら足踏み鳴らしてわめけばいいんだ、うちの妹なんかうるさくてうるさくて、何度も裏庭に放り出したが平気で帰ってきたって」
 それから小さく笑って、付け加えた。
「冗談だと思うわ。 妹のトレーシーさんをとても可愛がっていたもの」
 本当かも、と、ジェンは密かに考えた。 世の中にはたくましい妹もいるのだ。


 やがてウォーリーもお腹一杯になり、うつらうつら居眠りを始めた。 コニーは立ち上がってウォーリーをアンディの隣に寝かせ、真剣な表情で娘に目をやった。
「正直に言うわ。 私はビルに憧れていなかった。 大好きだったけど、今思うと、たぶん恋じゃなかった。
 でもボストンの社交界で、彼は本当の『王子様』だったの。 優勝カップみたいなもので、彼を獲得するのが最高の勝利だったのね。 だから私のように、地位も財産もない女が不意に現れて、横からさらっていったときは、もう大変だった」
 驚いたことに、そこでコニーはかすかな微笑を浮かべた。
「招待された家で、鴨料理に下剤が入っていたことがあってね」
 あきれかえって、ジェンはあんぐり口を開けた。
 コニーは美しい瞳をきらりと輝かせて、白状した。
「やったのはそこの娘さんだと、すぐ思ったの。 略式の食事会でね、男女の数が合ってなくて、彼女はたまたま私の隣の席だった。 だからナフキンを彼女の膝に落として、謝っている隙にお皿を取替えちゃった」
 ジェンの口が、ますます大きく開いた。 まさか母に、そんないたずらができるとは!
「生まれて初めて仕返しに成功したの。 すごく嬉しくてね。 それでよく覚えているの」
「下剤が入ってるって、よくわかったわね〜!」
「臭いがしたの。 私、鼻はいいのよ」
 ジェンは思わず母の肩を抱いて、大笑いした。
 





表紙 目次 文頭 前頁 次頁
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送