表紙
明日を抱いて
 134 新たな感動




 後ろで衣擦れの音がかすかに聞こえた。 ジェンが振り向くと、陳列室の出入り口からワンダが姿を覗かせていた。 なんとなくきまり悪そうなのは、やはりジェンにメイトランドのことを黙っていたからだろう。 ジェンのほうはゴードン一家に腹を立ててはいなかったが、少し気まずかった。
 メイトランドは帽子を持ち替え、ワンダに優しくうなずいてみせた。
「今日はありがとう。 とても有意義な時間を過ごせたよ」
「そうですか」
 ワンダは息を吸い込むようにして答えた。 メイトランドはジェンに向き直ると、財布から名刺を出して渡した。
「会社から連絡があって、夕方には汽車に乗らなくちゃならない。 今しか時間がなかったので、強引に君と会うことになった。 驚かせてすまなかった」
 彼の目が怖いほど真剣味を増した。
「この住所に手紙をくれると嬉しい。 できれば君の写真も」
「はい」
 ジェンはすぐに答えた。 そして、わずかに首を傾けて微笑んだ。
「返事をくれますか?」
 メイトランドの口から熱い息が吐き出された。
「もちろんだ。 もちろんだとも!」
 大きな手がジェンの前に差し出された。 ジェンはその手にそっと自分の手をすべりこませて握手しようとした。 その瞬間、ついにメイトランドの忍耐が尽きた。 そして、すらりとした娘の手を引き寄せると、ぎゅっと抱きしめた。
 彼には葉巻の匂いがしなかった。 夏用のコロンと麻の布地と、かすかな男らしい体臭が入り混じった気持ちのいい香りがした。
 ジェンは黙って実の父に抱きしめられていた。 引き締まった若々しい体に腕を回すべきかと考えたが、まだ遠慮があってできなかったので、胸に手を当てるだけにした。 メイトランドにはミッチと違う形でしなやかな筋肉がついていた。 きっとスポーツが好きな運動家なのだろう。
 やがてメイトランドはジェンをゆっくり離し、なごりおしそうに頬に触れた。
「体を大事にするんだよ」
 ジェンも小声で答えた。
「お父様もお元気で」
 お父様、と呼びかけられたとき、メイトランドはあえいだ。 そして、さっと赤くなった目を隠すように手を上げ、ぎこちなく二人の少女に笑いかけた後、大股で出入り口に向かった。


 ジェンは、寄り添ってきたワンダと手をつないで、メイトランドがあわただしく出て行く後姿を見送った。 ワンダが鼻のつまった声で囁いた。
「ビルおじさんが泣くところなんて、初めて見た」
 ジェンも感動していた。 自分がこの世に生を受けたことを、あんなに喜んでくれる人がいる。 それは雲に乗ったような、なんともいえず素晴らしい気分だった。








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