表紙
明日を抱いて
 121 口には注意




 ジェンがシカゴを訪れたのは、今回が初めてだった。 正直言って、中心街を埋める高層建築の多さに目を見張った。 ニューヨークよりずっとしゃれていて、数も多い。 五大湖貿易でうるおうシカゴの豊かさが、そこここにあふれていた。
「すごいわね。 モダンなビルばっかり」
 ジェンが素直に口に出すと、ピーターはちらりと窓から覗いてみて、つまらなそうに答えた。
「一八七一年の大火事で、町の大部分が焼けちゃったんだ。 それであちこちから建築家が集まってきて、ビル建築の見本市みたいになったんだよ」
 ジェンはすぐ思い出した。
「そうだったわね。 歴史で習ったわ。 悲惨だったって」
「貧乏人は追い出されっぱなしって、トニーが言ってたよ。 どこでも不公平だよな」
「トニーはそういうことも気にかけてるのね」
 ジェンは一見陽気な王子様に見えるアンソニーを脳裏に浮かべた。 彼は苦労してのし上がった父の若いころの姿を覚えている。 決して傲慢で世間知らずの経営者にはならないだろう。


 ド・クルシー・ホテルの入り口に着くと、ちょうどクレムの運転していた高級車が駐車場へ向かうところだった。
「お、無事に着いたんだな」
「決まってるじゃない。 クレムはただの運転手じゃなくて、車の技師でもあるのよ。 具合が悪くなったら自分で直せるんだから」
 ワンダが鳩のように胸を張って力説した。 ピーターはうるさそうに妹を眺め、貸し馬車の御者に金を払いながら、からかい口調になった。
「へえ、ワンダはクレムのファンか。 知らなかった。 のぼせるのは勝手だけど、駆け落ちだけはするなよ」
「なっ」
 ワンダはたちまち怒って真っ赤になった。
「のぼせてなんか、ないわよ! クレムはもうおじさんじゃないの! 三十過ぎなんて、もしかしたらおじいさんよ!」
「二十七ですけど」
 背後から静かな声が聞こえて、ワンダは一瞬固まり、さらに顔を真っ赤にした。 ジェンは笑いをこらえ、ピーターは大っぴらに笑顔になって、妹の代わりに謝罪した。
「ごめん、クレム。 僕がからかったのがいけなかったんだ。 あなたがジイさんだなんて、誰も思ってないから」
「いいんですよ」
 クレムは落ち着いた表情で三人の若者を眺め渡した。
「そろそろお着きかと思って、お迎えに来たんです。 えらいですね、本当に寄り道しませんでしたね」
「うっかりデパートなんかに入ったら、半日出てこられなくなるから」
「クリームパーラーぐらい寄ってもいいのに。 喉がかわいちゃったわ」
 ワンダが小声で文句を言った。 すると横についたクレムがすかさず応じた。
「ホテルの食堂でも食べられますよ。 何なら今からご案内しましょうか?」
「いえ」
 ワンダはもじもじとジェンの後ろに隠れてしまった。 そのとき、ジェンはふと思った。 ワンダは本当にクレムにあこがれているのかもしれないと。


 ピーターが面白がってジェンに話しかけながら後ろを歩いたので、ワンダは前に押し出される形になり、クレムと並んでエレベーターに乗った。 ピーターは少し遅れて入りながら、ジェンに耳打ちした。
「おしゃべりワンダが、前からクレムにだけは口きけないんだぜ。 すごく意識してるんだ」
「確かにすてきな人ね」
 肩幅が広く、腰が締まった立派な体形の青年を、ジェンはさりげなく観察した。 クレムは物静かだが、中にエネルギーが詰まっている感じがする。 ワンダのひそかな想いにも、実は気づいていて、わざと知らんふりをしているのかもしれない。 彼にはそんな大人の雰囲気があった。






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