表紙
明日を抱いて
 108 過去の記憶




 勉強と家事と、友達づきあいとで、ジェンが迎えた新しい年は羽が生えたように過ぎ去っていった。
 家族三人で愛し、守りぬいたおかげで、二人の赤ん坊は四ヶ月で早くも首がすわり、すくすくと育った。 もうちゃんと『大人たち』を見分けて、ジェンには甘え、母にはちょっぴり我がままを言い、ミッチに抱かれると盛んに髪や鼻を引っ張った。
「こいつら何で、オレだけにいろいろ仕掛けてくるのかな」
 二人を同時に抱いたせいで、両方から触りまくられたミッチが、髪を振り乱してよけながら、苦笑いを浮かべた。
「遊んでくれるとわかってるんでしょう」
「そのうち、びしびし鍛えられるのにね。 そんなこと、まだ知らないから」
 朝食の支度に忙しいコニーとジェンは、ちょっと手を休めて顔を見合わせ、ユーモラスな視線を交わした。


 三月になると、だいぶ日差しが暖かくなって、陽だまりではレンギョウが黄金色の花を咲かせていた。 広い道の雪がようやく融けたため、学校行きの馬車が復活して、その日もジェンを迎えにやってきた。
 みんな明るい顔をして、隣や向かい側と話し合っている。 あと二日で来るイースター休みの相談だった。
「私はシカゴにいるおばさんの家に行くの」
 デビーが嬉しそうにキャスに語っている傍で、ダグがジェリーと熱心に、シカゴで開かれるカーレースの話題にふけっていた。 エディは新しく覚えたというトランプの手品を周りに見せていて、曲がり角で馬車が揺れたため、カードを扇のように開いたところでつんのめり、あちこちにばらまいてしまった。
 何枚かが、エイプリルと並んで座っているジェンのところまで飛んできた。 笑いながらかがんで拾っていると、斜め横で同時に身をかがめたジョーディと指先が触れ合った。
 二人の手が同時に止まった。 ジェンは不意にしゃっくりをしそうになり、左手で口を覆った。 偶然に彼の指を押さえた右手があまりにも気持ちよく、離したくなかったばっかりに。
 一秒の三分の一か四分の一。 そのわずかな時間に、何が起きたのか。
 いや、その間に起きたのではない。 サンドクォーターへ来てから一年半。 ジョーディと知り合ってから一年ちょっと。 ジェンはずっと彼に好意を持っていた。 だがその気持ちが恋だということを、これまで誰にも、自分自身にさえ、絶対に認めないできた。
 それには理由が二つあった。 まず、周囲が二人を結びつけようとしたことだ。 ジョーディに憧れている女子はたくさんいる。 好きになって当然の相手だからこそ、ジェンは逃げ腰になってしまった。
 お似合いと言われて、私はおじけづいたんだ──ジェンの脳裏で、容赦ない声がささやいた。 恋は絶世の美女がするものだ。 たとえばうちの母とか、エイプリルとか。
 黒髪ですらりとしたジョーディと、流れる金の滝のような髪をしたエイプリルが並ぶと、まさにお似合いで、絵のように美しい。 しかし二人はまるっきり、お互いに惹かれていない。 ジョーディが関心を示す女子はジェンだけだった。
 もしジェンがふつうの少女だったら、二人はとっくに両思いになっていただろう。 ジェンがこんなに人間関係に敏感で、相手の心のほんのわずかな陰りを鋭く感じ取る性格でなかったら。
 それがもう一つの、そして最大の理由だった。
ジョーディは私に話しかけるとき、いつもほんの僅かにためらう──その理由は何か、ジェンにはわからなかった。 ただ、彼が中学に転校してきて一ヶ月ほどは、芝居をしていたんじゃないかと疑っていた。
 そう疑う根拠はちゃんとあった。 川の近くで二度出会って話を交わしたとき、音がしたのでふと視線をそらして、また戻そうとしたとき、川面に映るジョーディの顔が見えた。
 その日は風がなく、水面が揺れずに鏡のようになっていた。 ジェンの後頭部を見つめていたジョーディの表情がくっきりと見え、思わず息を引きそうになった。 それはひどく冷たく、そっけないものだった。
 素早く顔を向けたとき、その表情が残っていたなら、すぐ忘れてしまったかもしれない。 だが、本当に一瞬で首を回したのに、冷たい顔は幻のように消え、彼は微笑んでいた。 すると眼が糸のように細くなって表情が読み取れず、何か怒っているの? と訊こうとしたジェンの声は、口の中で消えた。
 すべて直感だ。 証拠があるわけではない。 また、ジェン自身も他の人には話していないし、これからも話すつもりはなかった。 それでもジェンはジョーディの態度に何かを感じ、自分のほうからも見えない壁を作ってしまった。






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