表紙
明日を抱いて
 102 祝福されて




 だが今は、自分のことで動揺している暇はなかった。 ジェンは頃合を見計らって台所へ降りていき、煮立った湯を大鍋に移して石炭を継ぎ足し、もう一杯沸かした。
 最初の湯を、気を遣いながら二階に運び上げると、コニーはベッドで絶え間なく寝返りを打っていた。 もうミッチが飛び出していってから二○分は経つ。 医師の家まで行くのに馬車なら五分、用意があるから戻ってくるまでに一○分として、もうそろそろ姿が見えてもいい頃だ。 母の腹部が波打っているのを見て、ジェンは生まれて初めてパニックを起こしそうになった。
 そのときタイミングよく、下でネロのいななきが響いた。 ジェンは飛び上がって窓へ駆けつけた。
「来たわ! おとうさんとフィッツロイ先生と、ムーアさんが、今馬車から降りるところよ」
「よかった。 前より早いの。 赤ちゃんが自分から出よう出ようとしてるみたい」
 ジェンは汗ばんだ額に乱れかかったコニーの髪をなでつけ、顔をやさしく拭いて寝巻きの襟元を直した。 その間、コニーは娘の左手にきつくしがみついていた。
「やっぱり心細い。 傍にいてくれる?」
「もちろん」
 ジェンは明るく答えることができた。 医者が来たので、もう責任感に押しつぶされずにすみ、むしろ力が沸いた。
 すぐに医師が、手伝いのムーア夫人と連れ立って、せかせかと階段を上がってきた。 ドナルド・フィッツロイは娘のマージにはあまり似ていない。 どちらかというと小柄で細く、赤っぽい髪が頭のてっぺんで渦を巻いていて、ミチバシリ(ロードランナーともいう鳥)にそっくりだと陰で言われていた。
 部屋に入ってくると、医師はジェンに笑顔でうなずいた。 娘の親友で気立てのいいジェンを、フィッツロイはとてもかわいがっていた。
「がんばってますね、二人とも。 もうわたしたちが来たから心配はいらないですよ」
 ジェンがためらっていると、コニーが必死で引きつるような声を出した。
「娘には傍にいてほしいんです。 お願いします!」
 医師は驚き、フクロウのような顔になった。 だが彼は賢明な男だった。 コニーが稀に見る恥ずかしがりだということも知っていた。 そのコニーが自分から男性医師に頼みごとをするのが、どんなに勇気がいるかということも。
「まあ、あまり前例がないですが」
 そう言って咳払いすると、太っ腹なムーア夫人があっさりと口を添えた。
「いいじゃないですか? 実の姪だもの。 あたしの育った西部じゃ、家族がお産の手伝いをするのは当たり前でしたよ」
 医師は手を小さく上げて降参し、コニーの補佐を始めた。 

 一階では、ミッチが一人で待たされていた。 じっと座っていられないし、立っても落ち着かない。 うろうろと居間や廊下を歩き回ったあげく、タバコを取り出してみたが、母と子に悪いだろうと慌てて床に投げ捨てた。
 声が聞こえてこないのが、逆に心配だった。 まさかとは思うが、弱ってしまっていきめないのではないだろうか。 産婦は盛大に騒ぐものだと聞いていたのに、この静けさは……。
 一時間半が過ぎ、ミッチは疲れ切って涙が出てきそうになった。 こんな情けない気分になったのは、家出して野宿した最初の晩以来だ。 もう我慢できない、二階へ上がってコニーが無事かどうか立ち聞きしてやる!──爪先立ってゆっくり段を上りきり、寝室の前まで忍んでいったそのとき、中からくぐもった小さな泣き声が聞こえた。
 ミッチは膝の力が一気に抜けた。 廊下に倒れかけ、あやうくドアノブを掴んで体を支えようとした。
 そのノブが、凄い力で回った。 弾き飛ばされたミッチがたじたじと後ずさりした目の前で、ドアがしずしずと開き、りんごに似た頬をしたムーア夫人が軍用艦のように出てきた。 その腕には真っ白な塊がしっかりと抱かれていた。
 目と鼻の先に立ちすくむミッチを見つけた夫人は、大きく口を開けて笑った。
「心配だったんですね。 おめでとうございます、お父さん。 跡継ぎの誕生ですよ!」
 ミッチは言葉もなく、コニーが丹精込めて作ったレースのおくるみに包まれた真っ赤な顔に見入った。 それから呻き声を立てると、寝室へ飛び込もうとした。
 ところがムーア夫人のたっぷりした体に、がっちりと塞がれた。 そして驚くべき言葉が続いた。
「まだだめですよ。 奥さんはもう一頑張りです。 あと一人生まれるんでね」





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