表紙
明日を抱いて
 41 教室での噂




 やがて午後の授業が始まった。 歴史はヴァン・ビューゼン先生の専門ではないが、なにしろ教師の数がまだ足りないので、一人でいくつか受け持たなくてはならない。 その点、ヴァン・ビューゼンは若くても物知りらしく、歴史の授業もけっこう面白かった。
 今は十八世紀のヨーロッパ史を学んでいて、フランス革命になろうかというところだった。 ジェンは先生の話をよく聞き、要点をノートに取っていたが、やがて斜め後ろでさっきから聞こえていた音が次第に大きくなってきたのに気づいた。
 それは誰かのいびきだった。 初めは小さく泡を吹くような音だった。 ところが今では鼻をフガフガいわせる雑音に替わっている。 ジェンは振り返って誰か確かめたくてたまらなかったが、何とか我慢した。
 他の生徒は遠慮なく振り向きはじめた。 声を忍ばせて笑っている者もいる。 やがてヴァン・ビューゼンが前から歩いてきたのて、ジェンもつられて行方を目で追うと、先生はジョーディ・ウェブスターの隣で立ち止まり、彼の後ろの机を強く教科書で叩いた。
 静かな教室に、その音は鞭のように響き渡った。 いびきをかいていたジャッキー・ベイリーは寝ぼけまなこで飛び起きて、あやうく横にすべり落ちるところだった。
「さて、睡眠不足は解消されたかな?」
 若々しい声で、ヴァン・ビューゼンはさりげなく尋ねた。 ジャッキーは目をこすりながら、ぼんやりと前に立つ教師を眺め、なぜか横に首を振った。 とたんに笑いが小波〔さざなみ〕のように広がった。
「そうか、それは残念。 でもここは寝室じゃない。 頭がすっきりするまで、廊下で立っていなさい」
 ジャッキーはのろのろと立ち上がって教室を出て行った。 ヴァン・ビューゼンは何事もなかったように後戻りすると、授業を再開した。
 自分ももとの姿勢に戻ろうとして、ジェンはジョーディと目が合った。 すると彼は口の端を上げて、にこっと笑った。 整った顔が一瞬でやわらぐその微笑に、はじめて見たときと変わらずジェンはハッとなった。


 歴史の授業が終わり、十五分の休みに入ると、ジャッキーが教室に帰ってきて冷やかされた。
「おまえ、何いびきかいてんだよ」
「いやー、歴史って退屈で」
「ハンプティのはマシなほうだぜ。 去年のコートニーなんかぼそぼそした声でさ、寝ないように腿をつねってたら、あざができちまったよ」
「けっこうやるな、あの先生」
 ジョーディがジャッキーに話しかけていた。
「まん丸な顔してるわりには、迫力があった」
「まともなんだ、あの先生」
 まだ眠そうに目をこすりながら、ジャッキーは答えた。
「去年、最上級クラスで盗みがあって、ボブ・ハンクスってやつが犯人にされたんだ。 親が余所もんで、浜ぞいのボロ小屋に住んでるからってさ。 でもハンプティがちゃんと調べなおして、別のやつが盗んだってわかったんだ」
「ロードだろ? あいつ金持ちのくせに盗癖あったんだよな。 だから転校を繰り返して、ここに入ってきたんだ」
 ダイクという生徒が横から口を入れた。 何人かがうなずき、口々に他にも物がなくなったことを語り始めた。
「ハンプティがいなかったら危なかったよ。 俺たちのものもそのうち盗られたかも」
「一部の親がやばかったよな。 理事長なんか、貧乏人は公立の学校に行けばいい、なんて言い出してさ」
「後でかっこわるかったから、まだハンプティのこと逆恨みしてるってよ。 先生この地域では校長に出世できないな」
 話を聞いていたジェンは、ハンプティことヴァン・ビューゼン先生への尊敬の気持ちを新たにした。 そして、ころころに太っていても馬鹿にされない理由がわかった気がした。





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