表紙
明日を抱いて
 14 初めて会話




 ジェンが鞄に手をかけて開くと、ミッチは咳払いして、食事の支度ができたら呼ぶからと言い置いて部屋を後にした。
 そこでジェンは鞄から着替えとタオルを出し、脇机に置いてあった水差しから小さな洗面器に水を注いで、まず顔を洗い、体の汗を拭き取った。 髪は、少し考えてから二つに分けてお下げに編んだ。 そのほうが首筋が涼しいし邪魔にならない。
 下着を着替えた後、ジェンは夏用のワンピースを三枚取り出して見比べた。 一つは華やかなフリルつきなので、埃の多い外で着るのには向かないし、いかにも余所行きだ。 後の二枚はどちらも実用的で少し迷ったが、結局目の色と合う藍色と白の縞の服に決めた。
 ちょうど着終わったとき、ドアの外から渋い声がした。
「昼飯だよ」
「はい」
 習慣で、右方向に顔を動かして時計を見ようとした。 そしてここがレイクウッドではなく、また夏の別荘でもないことに気づいた。 このときが一番寂しさを感じた。 そして思った。 時計が手に入ったら、真っ先に部屋の右側に置くか、壁に掛けようと。


 部屋を出ると、もうミッチは下に戻った後だった。 軽やかに階段を下りたジェンは、母が忙しげに狭い廊下を行き来しているのを見て、台所までついていった。
 ミッチとコニーの家は決して小さくはなかった。 平均的な農家より少し大きいぐらいだろう。 したがって台所は大人が四人自由に動き回れるぐらいの広さがあり、調理台を兼ねたテーブルと椅子二脚を余裕で置けた。 そのテーブルにミートローフと野菜の付け合せを一緒に盛った大皿が並んでいたので、ジェンは近くにあった盆に載せて運んでいこうとした。
 そのとき、声がした。 初めて聞く母の声だった。
「向こうじゃお皿運びなんかしなかったんでしょう?」
 母は声も美しかった。 歌手のような美声というより、心に響くしっとりとした声音だ。 やや低めで、耳に心地よく残る。 一度だけヒルダが妹を評して言ったことがあった。
「機嫌がいいときのコニーに逢ったら、男はたいてい忘れられなくなっちゃうのよ。 まるでビロードのような声をしてるの」
 機嫌がよくなくても美声だ、と、ジェンは思った。 同じ女として太刀打ちできない気がするが、あまり気にならなかった。 母親と競争するつもりはないし、家族がきれいだとやはり嬉しかった。
「いいえ、野外パーティーのときにお菓子を配ったりしたわ。 料理の見習いもしたし」
 実のところ、将来は料理人になろうと思っていた。 事務仕事や工場の女工だと給料が低すぎて、自活はなかなかむずかしい。 料理がうまくなれば中流以上の家庭や女学校などの施設で雇ってもらえるだろう。 成績抜群なのだから将来は先生になればいい、とワンダやトニーは言ったが、そのためには大学を出なければならない。 ずっと世話になってきた上に学費まで払ってもらうのは良心が許さなかった。
 ややそっけない口調ではあったが話しかけてくれたのが嬉しくて、ジェンは振り向いて母に微笑みかけた。 だがコニーは娘を見ていなかった。 身をかがめて、焼きたてのパンをオーブンから出しているところだった。  





表紙 目次 文頭 前頁 次頁
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送