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表紙

crimson sunrise
―137―

 兼光の消息は、それっきり絶えた。
 おそらく蔦生が手を回して、関東一円から追い払ったのだろうが、姿を消す前に、彼女はささやかな仕返しをしていった。


 誘拐騒動があった翌日、蔦生がいつもの時間に車で出勤すると、本社ビルに入ったとたん、ロビーのあちこちから拍手が沸き上がった。
 受け付けの女子社員が満面の笑みでカウンターから出てきて、花束を渡した。
「ご結婚おめでとうございます! いつまでもお幸せに!」
 蔦生は一瞬目をつぶった。
 くそっ、あのチクリ女め、あいつに決まってる。
 それでも、渋いながら顔は自然にほころんでいた。
「ありがとう、どうも。 急に決めたから、なんだか言い出しにくくてね」
「どこで知り合われたんですか?」
 バッグを下げて、これから出ようとしていたらしい丸顔の男子社員が、大胆に尋ねた。
 それだけは、口が裂けても言えない。 蔦生はあいまいにごまかした。
「特にどうという出会いじゃなくて」
「でも一目でグッと来ました?」
 いや、と答えようとして、蔦生は口をつぐんだ。
 そうなのかもしれない。 目で見た印象というより、初めて香南が口をきいた時の驚きが強く、まざまざと思い出すことができた。
 愛くるしい顔立ちから予想していた高い甘えた声ではなく、しっとりと落ち着いた響きだった。 話し方も慎重で、日照りの後にようやく訪れた雨のように、ささくれだった心を静めてくれた。
 彼女は芯を持っている。 穏やかだが揺ぎないものを秘めていて、人に流されない。
 ちょうど、彼女が愛する古木のように。
 護っているつもりでいたが、頼りにしているのは自分のほうかもしれないな、と蔦生は思いを馳せた。
「グッと来た。 確かに」
 ワーッというざわめきと笑いが、ロビーを温かい波のように伝わっていった。




 どこで調べたのか、それとも兼光が言いふらしたのか、香南が寝坊していたアパートにも、いきなり宅配と花屋の嵐が吹き荒れた。
 すっぴんな上に、髪をねじってリボンカーラーで止めていた香南は、着替える暇もなく次々と訪れる配達人に、最初は困っていた。
 だが、そのうちどうでも良くなって、堂々と毛束がピンピンと立った頭と紺色のガウン姿で戸口に出た。 領収書にサイン続きで手が痛くなり、女優さんってこんな気持ちなのかな〜とまで思った。
 お昼頃、贈り物の山が途切れたところで、やっと着替えることができた。 香南は、かさばる荷物をまず外廊下に積み、それから持てるだけ持って、下の蔦生の部屋に運んだ。 上のリビングが満杯になって、窓が見えなくなるほどだったからだ。
 階段を三往復して、ようやく片付いた。 汗を拭きながら上の部屋に戻ったところで、香南はつくづく思い知った。 有力者との結婚は、こんなに社会的影響が大きいのだと。







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