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表紙

crimson sunrise
―135―

 早すぎも遅すぎもせず、ちょうどいい間合いで、蔦生は答えた。
「いや」
 それだけだった。 説明や補足はいっさいなかった。
 嘘か本当か、どっちだろう。
 香南には判断できなかった。 でも、彼を信じることにした。 兼光が香南に嫉妬していないのは、明らかだったからだ。 彼女の目当てはまとまった金で、蔦生の妻の座ではなかった。


 わかったという印に、香南は蔦生の左肘に腕をからませて、ふわっと寄りかかった。
「どこへ寄るの?」
「ああ、もうすぐ。 あそこを曲がったらね」
 蔦生は暖かい声で答えた。


 香南は拍子抜けして、瞬きした。
 その通りは、いつもの帰り道だった。
「でも、ここ……」
 言い始めたところで、車は路傍に駐車した。
「降りて」
「え?」
「いいから、ちょっとだけ」
 一足先に車外へ出た蔦生の顔が、なぜか輝いて見えた。 まだ三時で、夏の太陽は高い。 なんで金色っぽく光ってるの? まるで夕日に照らされているみたい、と奇妙な思いをしつつ、香南は助手席から降りた。
 すると、蔦生が回ってきて、香南の手をたくしあげてがっちり繋いだ。
「こっちだよ」
 そして、気がつくと、あの大イチョウの前に連れてこられていた。


 苔むした塀には、裏木戸の鉄門がついていた。 その後ろの、少し入ったところに、見慣れぬ青い看板が立っていて、白いペイントの字が鮮やかに並んでいた。
「蔦生家建築用地……!?」
 なんとなくその字をたどって読んだ後、香南は石のように固まった。
 目が自動的に看板に吸い付いて、離れなくなった。 蔦生家……蔦生家って……!


 すぐ傍で、蔦生のやや上ずった声が聞こえた。
「気に入った? 家は大きな買い物だし、二人で住むんだから、相談しなきゃと思ったんだけど、びっくりさせて喜ぶ顔が見たくてさ。 そっちの誘惑に負けちゃったんだ」
 香南は小さく口を開けた。 興奮度が急激に増してくる。 呼吸を乱しながら、香南は看板とイチョウの間を何度も目で往復し、最後に巨大な老木を心ゆくまで見上げた。
 やがて実感が湧いてきた。 この木は、そしてこの庭は、蔦生の保護下に入ったのだ。
 心なしか、風に揺れる扇型の葉が、いつもより生気に満ちて見える。 香南はうっとりと呟いた。
「すごい〜」


 不安で強ばり気味だった蔦生の顔に、輝きが戻った。
「よかったー。 ここの地主、意外に手ごわくて、なかなか買えなかったんだ。 一時は焦ったよ。 他に売られそうになったんで、仕事時間中に先回りして、こっちへ向いてもらった」
 それで会社に行けなくなったのね──あまり嬉しくて、香南は頭がぼうっとなった。 大切な心の支えで、信仰心さえ感じていた大イチョウが、これからも生き残れる。 慣れ親しんだ大地に根を下ろして、悠々と生きていける。 ほぼ諦めていただけに、喜びはひとしおだった。
 だが、それよりも大きな幸福があった。 蔦生が彼女の話を覚えていたこと、望みを叶えようと頑張ってくれたことだった。
 こんなに大事にされてどうしよう──申し訳ないほどの気持ちに打たれて、香南は道端にもかかわらず、無我夢中で蔦生に抱きついた。








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