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表紙

crimson sunrise
―113―


 太陽は沈んでしまった。 周囲の景色は分刻みで暗さを増し、どんどんモノクロの世界になっていく。 薄暮の中で、彼は階段途中で出会った女性を香南と見まちがえたらしかった。
 バカは兄貴だけじゃないようだ。 香南はげっそりして、傍にある小さな自転車置き場の壁に、そっと姿を隠した。
 尖った言い合いは、更に続いた。
「ほんと信じらんない。 一度も会ったことないのに」
「化粧変えたからって、逃げ切れるなんて思うなよ」
「もうっ!」
 女性の金切り声が響いた。
「もしかしてストーカー? 誰か助けて!」
 次いで、彼女はわちゃわちゃしながらショルダーバッグを持ち上げ、中を探り始めた。 携帯を探しているらしい。
 最悪だ。 相手を刺激するなんて。
 はらはらして覗いている香南の前で、彼は大股二段飛ばしで駆け上がるやいなや、女性の手から電話を取り上げようとした。 彼女は悲鳴を上げ、必死で抵抗した。
 逃げてしまおうか、と、香南は一瞬思った。 だが、思い込みの激しい彼と、高ビーに見える彼女が、このまま揉み合っていると、思わぬ暴力事件に発展する可能性がある。 怪我人が出て、蔦生の名前がマスコミの餌食になったら……
 しかたなく、香南は思い切って自転車置き場の裏から姿を現わすと、大声で呼びかけた。
「呉〔くれ〕さん」


 掴み合いになっていた男の手が、ピタッと止まった。
 香南は、階段の下に歩いていきながら、できるだけ冷静に言葉を継いだ。
「私はここよ。 今帰ってきたところ」
 呉雅春〔くれ まさはる〕は喉の奥で奇妙な音を立て、すぐ目の前の顔と、階段下の香南とを、素早く見比べた。
 香南は怒りがこみあげてきて、腰に手を当てて仁王立ちした。
「正式に婚約したことなんかないでしょう? あなたが一方的に式場まで決めたんじゃない。 私はお断りしました。 内容証明つきの手紙を、ちゃんと送ったわ」
「何がちゃんとだ!」
「正式かどうかが重要なのよ。 婚約の証人はいる? 婚約指輪を贈ってプロポーズした?」
「でも体の関係が……」
 香南は爆発した。
「いやらしいんだから! こんな場所で大声で言うなんて! そんなふうに気配りがないから、二人で新しい生活を築くのは無理だとわかったんじゃないの」
「どうせ嘘ついてるんだろう?」
 呉が思いがけないことを言い出したので、香南は目を剥いた。
「なに?」
「正式な結婚なんてしてないんだろ? 見栄張って、男を実家へ引っ張っていって言わせたんだ。 なんかすごく落ち着いてて、只者じゃない感じだったと治が言ってたが。
 そんな金持ちっぽい男、ほんとに結婚してくれるなんて思うなよ。 男なんて惚れてるうちは何でも言うさ。 ただだから。
 でもすぐ飽きられる。 捨てられたらみじめだよ。 そうなる前に、一緒に帰ろう」







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