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表紙

crimson sunrise
―109―


 今度は、香南が黙る番だった。
 敏感に空気を読み取ったのだろう。 摂津はほんのわずか早口になって、なめらかに言い添えた。
「すぐ社長の携帯にお伝えして、折り返しかけていただきます。 それでよろしいでしょうか?」
 さすが訓練の行き届いた秘書で、本物の妻という証明がないうちは、じかに電話番号を教えることはなかった。


 相手がそう出るとは思わなかったため、香南はあたふたしてしまった。
「あ、でも、大事な仕事中だったら迷惑かもしれないし……困ったな」
「お急ぎですか?」
「あの、新しい家具を買おうと思いついて、出てきたんですよ。 それで相談したくて」
 もう買ってしまったが、他の言い訳を思いつかなかった。
「でも今日は止めときます。 うちでゆっくり相談します。 すみませんお忙しいところを」
「とんでもございません」
 うー、我ながら要領悪い。
 切る間際になって、むらむらと腹が立ってきた。 香南は開き直って、カマをかけてみた。
「そうか、確かよそへ寄ってから会社に行くみたいなことを言ってました。 あれ、今日だったんですね?」
「はあ、おそらくそうだと存じます」
 気の毒に、摂津は最後の最後でまんまと引っかかってしまった。


 挨拶して電話を切ると、香南はボックスを出て、軒を連ねる商店街の中を、当てどなく歩いた。
 今朝、蔦生は普通に車で出ていった。 それなのに、まだ出社していないのだ。
 幹部社員には仕事以外にいろいろ用事があることは知っている。 招待やビジネスランチ、取引相手との食事やパーティー、コンペに飲み会。 他には、各界実力者の接待などもあるだろう。
 だが、長く会社を留守にするとき、蔦生は香南に教えるのが常だった。 不意に彼女が気絶するのを心配していて、今日は忙しいが何時電話してもいいから、とか、午後は社内会議なので電源を切る、だから非常用ベルのボタンをいつでも押せるようにしとくんだよ、とか言い置いていく。
 今朝は、それがなかった。 考えてみれば、彼はどこか上の空で、ほとんど会話を交わさず、スッと出かけていった。




 嫌がらせ人間の撒いた毒は、じわじわと香南の胸に染みついた。
 ラックの他に、そろそろ必要になった夏服を見て回ろうかと計画していたのだが、もうそんな気力は失せ、香南は一直線にアパートへ戻ってしまった。
 
 
 食欲も落ちた。 ソーダを一缶飲んだだけで、香南は気分を紛らわすために、明日の木工教室の課題を予習し始めた。
 でも、やたら気が散る。 ぼうっと他のことを考えて、手が止まっていることが多い。 とうとう香南は課題のプリントを放り出し、リビングの床に大の字になって、白い無機質な天井を見つめた。









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