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表紙

crimson sunrise
―108―


 金と暇があるのは、いいことばかりじゃないな。
 香南はパソコンを切ってサッと立ち上がり、外出用の服を選びに行った。 やはりラックを買うなら現物を見たほうが、部屋に置いたときの様子をイメージしやすいし、歩き回ればストレス解消になる。
 もともと活発な香南には、家でおとなしくしているのは性に合わなかった。


 新宿まで出てもよかったが、配達のことを考えて、吉祥寺の大手家具店をまず見ることにした。
 手ごろなラックが二階フロアにあった。 あつらえたように趣味にぴったりで、大きさもよく、即決で二台買ってしまった。


 配達の手配を済ませた後も、まだ午前十一時前だった。 時間つぶしにもなりゃしない。 物足りない気持ちで駅前に出たとき、公衆電話のボックスが目についた。
 今日も秀紀の雇われ探偵が尾行してるんだろうか。 香南は見回したくなったが、それではかえって尾行者の注意を引いてしまいそうだ。 話す内容まではわからないんだから、念のため確かめるだけ、と自分に納得させて、さりげなくボックスに入った。
 かけろと指定された番号は、携帯電話のものではなかった。 香南は少し胸をどきどきさせながら、慎重に番号を押して、受話器を耳に当てた。
 すぐに相手が出た。 丁寧な口調の男性だった。
「はい。 こちらエンタープライズ・ツタオの社長室でございます」


 げっ!
 香南は、持ちなれない大きな受話器を取り落としそうになった。
 そして後悔した。 いきおいで電話しなければよかったと。
「あの……摂津さんですか?」
 反射的に返したとたん、ガーンとなった。 すぐ何か言わなくてはと焦るあまり、思い出した名前を口走ってしまった。
 ほんのわずか間を置いて、相手は見事に抑制された声で答えた。
「さようでございます。 わたくしに御用がおありなのでしょうか?」
「いえあの……あの、初めまして。 香南といいます。 里……口香南」
 もう舌を噛みたくなった。 ヘマなんてもんじゃない。 たとえ個人秘書でも、蔦生との仲を知らされているかどうかわからないのに。
 ところが、臨機応変の摂津は、すぐに応じた。
「ご挨拶ありがとうございます。 摂津敏哉〔せっつ としや〕と申します。 ご主人の秘書を四年半させていただいております」


 ご主人……。
 知ってる。 ちゃんと知ってるんだ。
 それだけのことなのに、香南は急に飛び上がりたくなるほど嬉しくなった。
「あ、ご丁寧に言ってくださって。 お忙しいところをすみません」
「いえ、決してそんなことは」
 疲れる社交辞令の言い合いだが、摂津の声に温かみが増した感じがした。
 自分から電話したのだから、用件に入らなければいけない。 香南は勇気を出して、そっと尋ねた。
「行矢さんに話したいことがあったんですが、携帯を忘れて番号がわからなくて。 あの、そちらの部屋にいたら電話に出てもらえますか?」
 今度は、はっきりわかるほど摂津の声が途絶えた。
「あいにく社長はただいま外出中でして」









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