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―102―
蔦生が出かけるときに、香南はふっと問いを言葉にした。
「今日はずっと会社?」
気のせいか、彼の返事が一拍遅れた。
「うん」
もう蔦生は玄関に降りていたが、不思議そうな表情で振り向いた。
「なんでそんなこと訊くの?」
「いや……」
そう口に出してから、突然気持ちが固まった。 見て見ないふりをしないで、はっきりさせたほうがいい。
「昨日、高円寺の駅にいた?」
蔦生は表情を変えなかった。
だが、だいぶ彼になじんだ香南にはわかった。 肩がわずかに緊張し、眼に油断のない光が加わるのが。
「行ったな、そういえば」
「電車から見えたよ〜。 女の人に腕掴まれてたでしょ」
さりげなく言おうとして、失敗した。 文句をつけるような語調になって、香南はしまったと思った。
だが、予想とは逆に蔦生の視線が和らぎ、口元がゆるんだ。
「あ、焼餅?」
「そんなんじゃ、ないけど」
言葉の真中に妙な間が入った。 香南が動揺していると、蔦生はバッグを上がりかまちに置き、両腕を伸ばして抱き寄せた。
「あれは、前に仕事を頼んだ女。 報酬が少ないって文句つけてきて、人前で胸ぐら掴まれた。 金に汚いのは困る」
「仕事?」
香南が上げた顔を、蔦生は優しくさすった。
「そう。 付き合ったことのある相手だったら、駅なんかで会わないよ。 これでも用心深いんだから」
香南は答えず、視線を落とした。 完全には納得できない。 ホームで見た女の仕草は、ビジネスがらみというには情がこもりすぎていた。
だが、その情景を頭に浮かべていて気づいたことがあった。 肝心の蔦生の態度はどうだっただろう。 彼の体は、電車のほうを向いていた。 今とは違い、冷ややかで突き放したような顔をしていなかったか……?
「あの人、すごくなれなれしく見えた」
そう呟いた香南に、蔦生の胸が溜息を含んで、大きく上下した。
「そういう人間なんだよ。 空気が読めないというか」
「嫌いなの?」
「うん」
蔦生はためらわずに、すぐそう言い切った。
夫が額にキスして出勤していった後も、香南は問題の情景を正確に思い出そうとしていた。
──そうだ、確かに行矢さんはうんざりした顔だった。 でも、ほんとにビジネスの関係かな。 別れた女に付きまとわれていたのかもしれないし──
この際、それぐらいのことは仕方がない。 彼は妻を失った独身者を何年もやっていたのだから。 香南は心がやわらぐのを覚え、たとえちょっとごまかされても、思い切って訊いてよかったと思った。
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