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表紙

crimson sunrise
―101―


 だがその夜、蔦生は明け方まで帰ってこなかった。
 そんなことは初めてだった。 香南は夜中に何度も目を覚まし、横を見たり手で探ったりして確かめた。
 結婚して日は浅いが、彼がそこにいるのは、香南にとって当たり前になっていた。 心地よいことに、人はすぐ慣れてしまうものらしい。


 それでいて、香南は蔦生がいつ帰宅したのかわからなかった。
 気づくと、彼は傍にいた。 枕に半分顔を埋め、小さな寝息を立てながら眠っていた。 その横顔は穏やかで、満足した猫のように見えた。
 カーテン越しの柔らかい光の中で眠る夫を、香南はしばらく眺めていた。
 香南自身にも苦労はあったが、蔦生が舐めた辛酸は、それとは比較にならないほど大きい。 復讐のエネルギーが彼をここまで盛り上げ、駆り立て、頂点に上り詰めさせた。
 だが敵も、黙ってサンドバッグのように叩かれっぱなしではいなかった。 彼の大事な人を、うまく奪ったのだ。 これは蔦生にとって、思わぬ打撃だっただろう。
 しゃにむに駆け上がってきた後の疲れは、想像できないほど大きいはずだ。 そこで、心の慰めになる恋人を不意に横取りされたら……。
 香南は彼から視線を逸らし、ベッドに頬杖をついて目を閉じた。
──私で代わりが務まるのかなぁ。 顔が似てるってだけで──
 向こうの方が美人だという事実が、香南にずっしりとのしかかっていた。




 六時半に香南がベッドを離れると、蔦生もすぐ起き出して、足を下ろして座り、目をこすった。
「もうちょっと寝てれば? 七時半起きでも間に合うよ〜」
 洗面所へ向かいながら香南が声をかけると、寝起きでぼんやりとくぐもった答えが返ってきた。
「もう一度寝たら、昼まで目が覚めなくなる」
「じゃ、コーヒー作る?」
「うん、頼む」


 顔を洗う前にパーコレーターを準備した。 間もなく、コーヒーのいい香りが部屋に立ち込め、蔦生は半分目を閉じたまま鼻をひくひくさせた。
「昔さ」
「うん?」
「父さんが会社に行く前に、いつもコーヒー作ってた。 インスタントだけど、こういうふうに家中に香りが広がって」
 香南もタオルを顔から離し、洗顔料の淡い匂いに混じったコーヒー豆の香りを吸い込んだ。
「うちはお茶だった。 緑茶。 お父さんは旅館の朝食みたいなのが好きでね。 生卵に海苔、とか」
「緑茶も匂う?」
「うん、ほんのりと」
 少し大声で会話しながら顔と手に無臭のクリームを塗って、コットンのワンピースをサッと頭から被って、香南はミニ食器棚へ急いだ。
 カップを出していると、手早く着替えた蔦生が横に来て、コーヒーを注いだ。 そして、香南がトーストを焼いている後ろで、冷蔵庫からスプレッドを出した。
 触れ合う近さで動いている内に、香南の気持ちは静まり、なごやかになった。
 彼も気分がよさそうで、落ち着いている。 もう二人は家族なんだ。 この安心感は、誰にも奪えない。
 たぶん。











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