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―98―
香南は、鼻が窓ガラスに触れるほど体を回し、プラットホームに立っている二人を見極めようとした。
だが、電車のドアが閉まり、動き出した。 あれよあれよという間に、香南の目前から駅が遠ざかり、夫と女性の姿も見えなくなった。
再び向き直った後も、心臓がドクドクと鳴っていた。
義姉の由加里が言った通り、蔦生はまだ三十代初めだが一種の貫禄があり、他人がなれなれしく触れるタイプではない。 それなのに、後ろ向きで立っていたあの女性は、彼の肘のあたりを持って揺さぶっていた。 あんなこと、香南だってやったことはないのに。
もしかして、水商売の人だろうか。 仕事柄、気安く客に触るかもしれない。 いや……大胆に腕を引っ張ったりはしないだろう。 あの態度は、じれた恋人の仕種だ。
元カノか、愛人だろうか。
香南はがっくりと首を落とし、新品の靴の爪先を見つめた。 思えば、蔦生の私生活をほとんど知らない。 金と地位があって、姿も人並み以上で、もてないわけがないのだ。
でも私は妻なんだから、と、香南は自分にきっぱり言い聞かせた。 正妻の立場は強いはずだ。 たとえ彼がなかなか公表してくれなくても。
心はまだ乱れていた。 気が散っていたため、乗り越したのに気づかず、二駅分引き返す羽目になった。
駅で降りてからは、大股でアパートまで歩いた。 元気を取り戻すには、体を動かすのが一番だ。 まだ暗くなるまで間があるが、夕方の買い物や早い帰宅の勤め人たちで、道は自転車と車の往来が多くなっていた。
いつものイチョウに挨拶してから角を曲がり、アパートの門を入ったところで、香南は意外な驚きに見舞われた。
二階へ上がる階段の途中に、ピンクのシャツを着た桜が座っていた。 そして、退屈そうに周囲を見回していた。
目が合ったとたん、その顔がパッと輝いた。 サボを履いた足が鈍い音を立てて段を駆け下り、立ち止まった香南に近づいてきた。
「あーよかった、会えた会えた〜!」
「どうしたの?」
他に言葉を思いつかず、香南がぼんやり尋ねると、桜はかわいらしいしかめ面を作った。
「どうしたのじゃないよー。 急に辞めちゃって連絡ないしー、心配したんだから」
「ごめん。 どのくらい待った?」
桜は腕に嵌めたゴツい時計を見た。
「長かったーって、そうでもないな。 二十分くらい」
「うち入る?」
「うん!」
当然という口調で、元同僚の桜は陽気な答えを返した。
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