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表紙

crimson sunrise
―92―


「会社の役員か何かやってらっしゃるんですか?」
 蔦生が言う前に、母がずばりと訊いた。 その目線が、地味だが上等な仕立てのスーツを観察しているのに気づいて、蔦生は普通のサラリーマン路線を諦めた。
「はい」
「香南は催し物の臨時店員みたいなことをやってたみたいだけど、よくこんな立派な方と知り合えたわね」
 最初の出会いを思い出して、香南は顔がゆるみそうになった。 もちろん本当のことを話す気はないが。
「一応、友達の紹介で」
 今度は蔦生が突発的に吹きかけて、急いで湯呑みを手に取った。
「日曜日に二人で籍を入れました。 ご挨拶と順序が逆になって、申し訳ありません」
「いえ、それは……」
 あまりにも突然のことなので、香南の母はまだどうしたらいいかよくわからない様子だった。
「私は、香南が幸せならそれ以上のことは」
「ありがとうございます」
 蔦生が神妙に言った。


 蔦生の外見が、母と兄嫁をいたく感心させたのは間違いなかった。 香南も、彼が上品に礼儀正しく振舞ってくれるのが誇らしかった。
 蔦生は、肩書きを入れない私的な名刺を香南の母に渡し、東京にお寄りのときは泊まってください、と誘った。
「たぶん一年ぐらいで引っ越しますから、その間はいつでも」
「引っ越されるんですか?」
 母の目が光った。 家を移る→没落と考えたらしい。
 蔦生はこともなげに言い添えた。
「僕の家は使い勝手がよくなくて。 といっても、売る気はありませんが。 この人と相談して、別に住みやすい家を新築するつもりです」
「まあ……すてきねぇ」
 うらやましさが、素直に声に出た。


 母が蔦生と話している間、香南は台所に立って、由加里が洗い物をするのを手伝った。
 由加里は大きな眼をくるくるさせて、好奇心一杯だった。
「渋めでかっこいいねー彼! どこで見つけたの?」
「家の傍で」
「会社の重役さん?」
「うん、まあ」
「知り合ってどのくらい?」
 香南は正直に話した。 由加里はますます目を丸くして驚いた。
「電撃結婚って感じだね。 どうしてそんなに急いだんだろ」
「私が頼りなく見えたからかも」
 すぐ気絶するようになったことを言うと、由加里は訳知り顔になった。
「なーるほど、香南ちゃんもかなり世間を知って、作戦を立てたわけか」
「違うよ。 本当に目まいがするの」
「ふうん」
 笑いを含んだ声で呟くと、兄嫁は肘で香南を軽く突っついてきた。
 誤解は迷惑だが、兄嫁の由加里は独身時代から友達で、悪気のない性格だとわかっているので、香南は苦笑しただけで済ませた。


 婚約破棄した『彼』のことは、由加里のほうからさりげなく言い出した。
「呉〔くれ〕さん、まだ独身だよ」
「そう」
「でもね、私も香南ちゃんの選んだ人のほうが良いと思うよ」
「ありがと」
 兄嫁の言葉で、香南は思ったよりずっとホッとした気分になった。











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