表紙
目次
文頭
前頁
次頁
―87―
朝っぱらから、こんな通告を入れてって……。
一度に心が重くなった。
確か、そのうち名義書き換えの書類を行矢さんが持っていくはずだ。 だから香南には何もする必要はないわけだが、不愉快なことに変わりはなかった。
勝手に男を引き入れた浮気女、と見られているのが悔しかった。
気分転換のためにも、いつもより多めにアクセサリーをつけ直してから、香南は改めて部屋を出た。
すると、階段を家主の仲村が駆け上ってくるのが見えた。 太めなので、ぜいぜい言っている。 香南と目が合うと、彼は激しく瞬きした後、精一杯の愛想笑いを浮かべて近づいてきた。
「ああ、ええと、里口さんですね?」
ほんとはもう違うけど、と心の中で思いながら、香南は一応笑顔を返した。
「はい、おはようございます」
「えー、どうも」
仲村は赤らんだ顔から汗を噴き出させ、なんとも暑苦しかった。
「先ほどは失礼しました。 えらい勘違いをしてしまって。 結婚されたんですってね。 おめでたいことで」
香南は胸を撫で下ろした。 さすが蔦生は仕事が速い。 もう賃貸契約の変更を済ませて、結婚の事実を告げたらしかった。
詫びながら、仲村の目は香南の左手にそそがれた。 まだ結婚指輪は貰っていない。 香南はなんとなくムッとして、笑いを消した。
「はい、六日の日曜日に」
「それはそれは。 で、えーと」
仲村は口で息をつきつつ、くしゃくしゃのメモをポケットから取り出して確かめた。
「蔦生香南さんになられたと」
「はい」
「それで、こちらの部屋も下と同じに蔦生名義にしてよろしいんですね?」
「はい、できれば」
「もちろんできます。 一度も延滞のない模範的な借主ですからねえ。 末永く住んでいただきたいです」
コロッと態度変えてる──それにも少々むかついたが、汗びっしょりになって飛んできた家主を見ると、むげに腹を立てることができなくなった。
「じゃ、この通告はなかったことに?」
紙を見せられて、仲村はいっそう汗をかき、ハンカチを出して額をぬぐった。
「ええ。 悪く思わないでくださいよ。 こちらの誤解で」
不意に香南は思いついた。
「誰かが家主さんに言いました? 同居の規則を破ってる人がいるって?」
一瞬ためらった後、中村は体を寄せて、小声になった。
「匿名の手紙が来てね。 思わせぶりな写真が入ってて、ほら、あなたと旦那さんが部屋に入るところとか。 それで騙されちゃったんですよ」
手紙は印刷されていたという。 そんな怪しげなチクリの文を、よく簡単に信用するものだと、香南は内心あきれた。
表紙
目次
文頭
前頁
次頁
背景:
ぐらん・ふくや・かふぇ
/ボタン:
May Fair Garden
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO
掲示板
[PR]
爆速!無料ブログ
無料ホームページ開設
無料ライブ放送