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表紙

crimson sunrise
―86―


 蔦生が通勤用のスーツに身を固めて出てきた。 別人のようにくすんだ姿を見やって、香南は彼が二度目のシャワーを浴びている間にぼんやり考えていたことを口にした。
「もう一人の蔦生さん、どうしてる?」
 上等なビジネスバッグを手に取ると、蔦生は淡々と答えた。
「あいつも結婚した。 今ドイツのロマンチック何とかに新婚旅行中だ」
 香南は驚くふりをすることができなかった。
「ふーん、ロマンチック街道?」
「そんなようなやつ。 だから、留守中の今週一杯、あいつの会社にも目配らないといけないんで、こっちの新婚旅行は披露宴のもっと先になりそうだ。 ごめんな」
「謝ることなんてないよ」
 香南もあっさり返事した。
「不意に空から降ってきたみたいな結婚だったから、後は落ち着いてゆっくり考えよう」
 蔦生はバッグを持ち上げ、そのままの姿勢で数秒間、ベッドに横座りした香南を見つめた。
 謎めいた視線だった。 優しいが、どこか寂しそうで、迷ったような光があった。
 ふと、香南は感じた。 ゴージャスな秀紀の花嫁と比べられてるんじゃないか?
 あわててベッドからすべり降りると、香南は室内履きをつっかけて安物の洋服掛けに突進した。
「私も起きなきゃ。 仕事に出なくなったら、とたんにダレちゃったみたい」
「疲れが出たんだよ」
 蔦生は思いがけないことを言い、傍を通ろうとした香南を引き寄せて、胸に抱いた。
「君は充分働き者だよ。 だから今のうちにゆっくり休んで、英気を養っときな。 すぐ忙しくなるから」
「え? なんで?」
 腕の中で顔を上げた香南に、蔦生は軽く片目をつぶってみせた。
「もうすぐわかる。 買い物かなんかして、楽しむといいよ。 荷物だらけになったら、下の部屋に入れてもいいから」
 朝飯はどこかで軽く取る、できるだけ早く帰るよ、と言い残して、蔦生は出て行った。




 買い物といってもな〜。
 いったん普段着に替えてから、香南はミルクを温めたマグを持って、ぼんやりカウチに座った。
 こっちに来てから、物を買うときはたいてい仲間と一緒だった。 バーゲンや、バイトで得た情報でお買い得品を買いに行くことが多く、締めはファーストフード店か、せいぜいおサレなカフェで、戦利品を見せ合って盛り上がる。
 だが突如、月に五十万も自由にできる身になって、彼女らと出かけるのが急に難しくなった。
「安物買ったら、蔦……行矢さんと釣りあわないもん。 でも、一人だけ高い物買ったら、みんな付き合ってくれなくなる」
 どうしよう。
 やっぱり何かの教室かカルチャーセンターみたいなのに行こう、と、香南は決めた。 蔦生の忠告が正しかったのだ。 そこで新しい仲間を作って、気がねなしに話そう。 そうだ、それがいい。
 香南は、さっそく携帯を取って、あちこちググり始めた。


 何箇所か候補を決めた後、外出着に着替えたのが十時近くだった。
 いつもの習慣で持ち物を再点検し、忘れ物のないようにしてから、玄関のドアを開けようとした。
 そのとき、ポストに半分差し込まれた紙を見つけた。 なにげなしに引っ張り出すと、黒々と大きく印刷された字が目に飛び込んできた。


『205号室、里口香南様
 申し上げにくいことですが、当アパートの規約により、契約なさっているご本人以外の在住は許可されておりません。
 早急に同居を中止されるか、または賃貸契約の解除をお願いいたします。

メゾン仲村、家主拝』










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