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表紙

crimson sunrise
―84―


 そんなに貰っても、きっと箪笥預金になるだろうとわかっていた。 ただ、服や靴なんかはこれまでより上等なのを着なきゃいけないだろうから、そういう物が必要となったときのために取っておこうと思った。
 そのとき、まるで心を見透かしたように、蔦生が言った。
「ドレスとかアクセサリーは、一回につき百万まで」
 香南は腰を抜かしそうになった。
「べ……別枠?」
 とたんに、蔦生は手を差し伸べて、香南の柔らかい頬を撫でた。
「当然だろ? 社交費の一部なんだから。
 篤美はアメリカやヨーロッパに行ってまで買いまくってたよ。 死んだ後、クローゼットにしてた部屋から、服が二百ぐらい出てきて、驚いた。 これで商売できるんじゃないかと思うぐらいだった」
「その服、どうしたの?」
「全部、会社の子に処分してもらった。 新しいのは皆で分けっこしたんじゃないかな」
「新しいの?」
「そう、紙袋や箱に入ったままのやつが、半分ほどあったらしい」
 買っただけで、中を見ようともしなかった袋が、百近くも……。
 篤美さんは、買い物依存症ぎみだったんだろうか。 私はそうなりたくないし、絶対ならないようにしよう、と、香南は固く決めた。


 やや気詰まりな家計の話が終わると、二人は元の雰囲気に戻った。 狭い部屋でくつろいで、なんとなく寄り添ってウダウダした。 あまり話もしないが、不思議に楽しかった。




 翌日は、水曜日だった。
 ようやく気温が季節に追いついてきて、朝からもう蒸し暑かった。 欠伸を噛みころしながら起き上がった香南は、窓際に立って外を見ている夫の姿に眼を釘付けにした。
 彼は上半身裸で、黒いジャージのズボンだけを身につけていた。 いつもさりげなくきちんと整えている髪が、朝シャンの直後でふわっと浮き上がり、乱れている。 片手を窓枠に置いて、じっと裏庭を見下ろしているその背中には程よい筋肉がつき、ゆっくりした呼吸に伴ってなめらかに動いた。
 香南は、両目をこすった。 輪郭は確かに蔦生なのに、まるで別人のような気がする。 この人は、いったい誰?
 香南が起きた気配を感じたのか、蔦生が上半身をねじって振り向いた。
 彼の顔が、はっきり見えた。 香南の瞳が次第に大きさを増し、張り裂けそうになった。
 朝の太陽は、防備を失った彼の姿を、この上なく正確に照らし出した。 めりはりの効いた大きな眼。 額から垂れかかった髪に半ば覆われた、秀でた額。 すっきりした鼻の線と、わずかに歪めた色っぽい口元。
 不意に、学生の頃に心惹かれた詩が、脳裏に浮かび上がった。


   虎よ、虎よ、輝き燃える
   夜の森のしじまで


「行矢さん」
 声が喉にからまって、かすれた。
「行矢さんって、ほんとは……全然ちがうんじゃない……」









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