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表紙

crimson sunrise
―76―


   それからが、蔦生の本領発揮だった。
「今夜のことは、ちょっと考えたんだ」
 西の方角へ車を回しながら、蔦生はサラッとした口調で切り出した。
「アパートへ戻るのは普通すぎるし、僕の家へ行くのは、だだっ広いだけでなんとなく嫌だろう?
 で、郊外の宿を予約しといた。 繁華街から少し外れただけなんだが、緑に囲まれた隠れ家的なところで。
 行きたい?」
 わくわくして、香南は大きく何度も頷いた。
「うん、うん! 行ってみたい! 素敵ね、蔦生さん」
 ステアリングから左手を離すと、蔦生は新妻のきゃしゃな体を引き寄せた。
「今日から君も蔦生さんだ。 他の呼び方にしないか」
「あ、えーと」
 香南は戸惑い、頬を赤らめた。 考えてなかった。 ひとまわり近く年が離れているし、彼は気配りがよくて落ち着いているので、『蔦生さん』が香南的には一番ぴったり来ていたのだ。
「じゃぁ、行矢〔ゆきや〕さん?」
 思わず問いかけ口調になった。 なんか照れる。 だが、蔦生は満足そうに彼女の体を揺すった。
「そう、それがいいよ」


 行き着いた先は、レストランを本館とした、コテージの集合体だった。 薄茶色の壁に臙脂〔えんじ〕の屋根がついた平屋が、静かな林の中に点在している。 それぞれが独立しているのが、いかにも隠れ家という雰囲気で、情緒があった。
 前もって注文してあったらしく、レストランに入るとすぐ、さっぱりして熱々の和食が次々と運ばれてきた。
「昼は肉食だったから、夜は草食系」
 そう言って、蔦生は目じりに皺を寄せて笑った。


 素晴らしい夜だった。 香南は何も用意したり考えたりする必要がなく、蔦生のもてなしにただ任せて、舌鼓を打ち、のんびり楽しんだ。
 熱燗のお酒も、一本つけてもらった。 今夜はもう運転しないから、蔦生も少し口をつけて、二人で乾杯した。
 それから手をつないで、八人ほどの客が穏やかに食事しているレストランの建物を出た。 上気した頬に、涼しい夜風が心地よい。 満腹でぼんやりしながらも、香南はふと思った。
 こんなに手配がうまいのは、接待に慣れているためだ。 今は会社の最高責任者でも、もっと若い頃は苦労して、いろんな技量を身につけてきたのだろう。
 同じ蔦生でも、のほほんと生きてきたらしい秀紀とは、努力の質と量が決定的に違っていた。









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