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表紙

crimson sunrise
―70―


  「私のほうが上なんて、言ってない!」
 香南は急いで言い返したが、もう車は彼女を離れて、さっさと道を遠ざかっていた。
 ふくれっ面で、香南は紺色の車が姿を消すまで見送った。 気が付くと、あんなに空腹だったのに、すっかり食欲がなくなっていた。


 香南は、地面に落ちた封筒をゆっくり拾い上げた。 そして、やや乱暴にちぎって開けながら、アパートに戻っていった。
 封筒の中から出てきたのは、エンボス加工をほどこした、上質な紙の招待状だった。 金文字で、ホテルの名前と式の時間が書いてある。 会場になる広間は……、翔碧の間? ものすごく豪華そうな名前で、香南は気落ちした。
 もちろん、秀紀の挑発に乗ってのこのこ出かけていくつもりはなかった。 親戚でも友人でもないし、第一着ていく服がない。 その上、アクセとかヘアメイクとか、ネイルとか。
 ああ、もうっ!
 着飾った自分をつい想像してしまって、香南は唇を噛んだ。 いまどきの若いファッションなら着こなせるが、コンサバエレガンスなんて似合うか?
 秀紀はたしかに会社社長だ。 でも、香南の蔦生さんは、その上を行っている。 いわば実業界のプリンスなのだ。 そんな彼の奥さんが、自分に務まるんだろうか。


 香南は、重い足を引きずって部屋に入った。
 秀紀がまた何か仕掛けてきそうで、落ち着かない。 念入りに鍵をかけた後、いつ蔦生からかかってきてもいいように、携帯をテーブルに置き、クッションを抱えて横になった。
 そのうち、寝てしまった。


 喉がからからになって、目が覚めた。
 立ち上がろうとすると、お腹がグーッと鳴った。 胃の中が空っぽだ。 とりあえず、五分で沸くポットのスイッチを入れたとき、電話が鳴った。
 まだカーテンを引いていなかったので、暗くなりかけた戸外がぼんやりと見えた。 香南は携帯を取り、急いで開いた。
「ごめん、遅くなった」
 すぐに、蔦生の声が小さく聞こえた。 周囲が騒がしく、聞き取りにくい。 香南は音を大きくしたが、雑音が急に増幅されて、思わず顔をしかめた。
「どこにいるの? 賑やかね」
「ああ、プロレスの会場にいるんだ。 友達が出てるんで、応援を約束してた。 あと半時間ほどここにいて、それから飛行機で愛知のほうに行く。 明日の午前中に戻ってくる予定だ」
 それから例の結婚式に出席するのね、と香南は心の中で呟いた。
「その後は?」
「午後は野暮用があるから、済んだら、たぶん夕方にはそっちへ帰れると思う」
 野暮用か……。
 蔦生は、式について何も言う気はないようだった。








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