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表紙

crimson sunrise
―65―


   先ほどから何となく薄暗いと感じていた。 それもそのはずで、窓から外を見ると空は雲に覆われ、小雨が降っていた。
 車庫にあるゆったりした戸棚から灰色の傘を出して、蔦生は車のドアを開け、まず香南を入れてから自分も乗った。


 発車させてからも、短い間合いで二度電話が入った。 その度にせわしなくイヤホンをかけて聞いている蔦生を横目で見て、香南は感じた。 予想以上に面倒なことになっているにちがいない。 きっと使い込みした金額が大きいのだろう。
 二度目の通話が終わると、蔦生は香南のほうを見て、微笑んでみせた。 さっきより表情の厳しさはやわらいでいた。
「帳簿のごまかし方が半端じゃないらしい。 思ったより計画的だな、これは。 でも、なんとか証拠は処分される前に押さえられた。 これで堂々と警察に通報できる」
「被害は? 大きいって?」
 やはりそれが心配だった。 蔦生は音を立てて息を吐き、声を太くした。
「億単位だ」
 香南はぎょっとなった。 庶民から見れば、億の金は次元の違う世界だ。
「取り戻せそう? 大企業だから、ガタガタになったりしないとは思うけど」
「それは平気だ。 あいつが金を預けそうな相手も、見当がついてる」
 しかし、蔦生は相当悔しそうだった。
「部下には目を配っていたつもりだった。 勤務態度が変わったり、急に派手になったりしたら、気づいたはずなんだがな」
 信頼を裏切られる腹立たしさは、香南にもわかった。
「そこまで考えて、お芝居してたのかも」
「冷静な悪人だったってわけか」
「うん。 たまに想像つかない性格の人がいるから」
「そうだな」
 呟くと、蔦生は大型車をきれいに動かして、普段の逆ルートからアパート前の道に入った。


 蔦生は敷地内まで入らず、道の横に停めた。 そして、降りようと腰を浮かせた香南を引き寄せ、ぐっと抱きしめた。
「後で電話する。 できたら晩飯一緒にしたいが、今夜は無理かもな」
「わかってる。 電話は待ってるね」
 軽く優しいキスを交わした後、今度こそ本当に、香南は車を降りた。 重いバッグは、後から蔦生が渡してくれた。


 香南がアパートに入り、階段を上りきるまで、正面口の前に寄せた車は去らなかった。
 彼女が外廊下を歩き出したとき、ようやく蔦生は車を発進させた。 香南は足を止め、手すりに寄りかかるようにして、車体の後ろ端が視野から消えるまで見送った。
 部屋の鍵を開けようとして、香南は改めてしみじみと、蔦生の助言で付けたロックを見上げた。
 驚きで腰を抜かしかけた出会いの朝から、ずいぶん長く時が経ったような気がする。 だが実際は、まだ半月ほどなのだ。


 わずか二週間で、プロポーズされちった。


 香南は、不思議の国のアリスになったような気がした。






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