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―62―
「そうだな」
呟いてから数秒間、蔦生は考えていた。
その後、膝に置いた自分の手を見つめるようにして、彼は淡々と話し出した。
「親は普通のサラリーマンだった。 きょうだいは妹が一人。
僕の推薦入学が決まって、祝おうってことになって、家族でB湖へ行ったんだ。 高三の夏休みに」
香南は目を閉じて、情景を想像した。 光る空と、小波の立つミッドブルーの湖面。にぎやかに楽しんでいる標準的な一家。 きっと仲のいい家族だったのだろう。 構成は香南の家と一緒だが、蔦生は香南の兄よりずっと素敵だった。
「家族みんなと犬で、ボートに乗った。 四人乗りの手こぎボートで、のんびり遊んでたんだ。 歌のイントロ・クイズかなんかしながら。
そこへ、いきなり何かがぶち当たってきた。 岩陰から不意に出てきたから、何だかわからなかった。 瞬間的に投げ出されて、気が付いたら病院のベッドにいた」
暖かい夜だった。 だが、香南は不意に得も知れぬ寒気を感じて、左横の蔦生に体を寄せた。
蔦生は、右手を香南の左手に置き、そっと握りしめてから、話を続けた。
「頭を強く打ったらしくて、しばらく意識がはっきりしなかった。 その間に水難審判が行なわれて、安田一男〔やすだ かずお〕という男が逮捕された。 前方不注意でモーターボートをぶつけて、その後逃げたってことで」
「逃げた?」
思わず香南は大声になった。 握っていた蔦生の手に、力が入った。
「そうだ。 そのせいで、僕の家族は全員助からなかった。 犬も」
香南は、震える指を蔦生の手に重ねて、両手で挟んだ。 彼の喉が、かすかな音を立てて鳴った。
「泳げなかったのは、母だけだ。 きっと当たり方がひどかったせいで、父と妹は相手の船に轢かれたか、ぶつかって気絶したんだろう」
「その安田って人、罪を認めたの?」
「ああ。 実刑になった。 だが、それじゃ済まなかった。
半年経って、僕が思い出したんだ」
香南に挟まれている蔦生の手が、カッと熱を帯びた。
「物凄いスピードで襲いかかってくるガラス窓と、その向こうの運転席で、でかい口を開けてわめいている若い男の顔だ。
その顔は、安田じゃなかった。 全然違ってた」
「知ってる顔?」
「いや、そのときは知らなかった。 でも、見つけた」
蔦生の声が、押しつぶされたように低くきしんだ。
「蔦生秀紀って奴だった」
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