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―59―
広大な蔦生邸に備えていないものは、女物の衣類だった。 離れにあった服はすごい数だったらしいが、篤美〔あつみ〕夫人が事故死した後、当時来ていたハウスキーパーに頼んで、すべて処分したという。
蔦生は、サラッと言っただけで、その理由を説明しなかった。
香南も訊かなかった。 何か深刻な事情があるらしいが、彼が言いたくないことを無理に聞き出しても、後味が悪いだけだ。
その夜は、そのまま蔦生と一緒に寝ることにした。 翌日仕事がなくなったので、寝坊しても大丈夫だと、蔦生は言った。 彼自身は、めったにやらない重役出勤をするつもりだとも言った。
「僕のジーパンとシャツ着て帰るか? だぶだぶだろうけど、ちゃんと洗ってあるから」
「うん、そうする」
香南は楽しげに答えて、食料品の包装紙を屑篭に入れ、布団にもぐり込んだ。 隣の部屋へ行って端末をチェックしていた蔦生も、五分と経たずに戻ってくると、柔らかい間接光の照明を消してから、香南の横に入った。
二人は並んで、暗くなった天井を少しの間眺めていた。
やがて、蔦生が低く呟いた。
「ゆっくりおやすみ」
香南は彼のほうに寝返りを打ち、その肩に顎を置いて小声で返した。
「おやすみなさい」
そして、微笑みながら元の姿勢に戻った。
翌朝、香南はすごくいい気分で目覚めた。 とても幸せな夢を見て、その余韻が尾を引いている感じだ。
どんな夢だったっけ?
思い出そうとしながら、香南は目をこすってベッドから足を下ろした。
いつもの所に室内靴がなかった。 あれっと思った瞬間、記憶がふわりと舞い降りてきた。
いつもなら、現実がほろ苦さをつきつけてくるところだ。 だがその朝は、一挙に幸せ感が倍増した。
蔦生さん?
香南は急いでベッドを振り返った。 まっ平らだ。 どこへ行ったんだろう。
戸口でカサカサという音がした。 急いで香南が顔を向けると、フライ返しを手に持った蔦生が、上半身を覗かせていた。
「いつもの朝食作ってるんだ。 食べてみる?」
「え? なになに?」
香南の笑顔がはじけた。 裸足のままピョンと床に飛び降りると、香南はおいしそうなベーコンの匂いをさせている蔦生に駆け寄っていった。
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