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表紙

crimson sunrise
―53―


 いろんな物を持っているということは、それだけ気を遣わないで暮らしていけるということでもある。 彼は悪意がなかったが、鈍感だった。 そして、思いやりに欠けた。


 デートするたびに心の距離が広がるのを、香南はどうしようもなかった。
 中学のとき、そして高校時代にそれぞれ憧れた人を思い浮かべた。 一人は足が速く、もう一人は数学が得意だった。 前者は脚を折った同じ部活の子を、母親に頼んで毎朝学校に車で運んでいた。 そして後者は、誰もいない教室で黙々と掃除をしていたことがあった。
 高校の子とは、卒業前の一ヶ月にようやく気持ちが伝わって、付き合いはじめた。 とても地味な子なので、まさか明るくて友人の多い香南に興味を持たれているとは夢にも思わなかった、と苦笑していた。
 だがその子は成績がよかったため、離れた大学へ入って下宿することになり、付き合いは自然消滅した。 話が通じてわずか一ヶ月では、淡い恋にも達していなかったのだ。


 あの二人のほうが、ずっとずっと、百倍もよかった──彼と会うたびにそう思ってしまう自分を、香南は許せなかった。
 おまけに、婚約は結婚同然だと言い切って、会うごとに露骨に迫ってくる男が、もっと許せなかった。
 最初はそんなでもなかったのだが、終いには手をつなぐのも嫌になって、香南は家へ帰るなり、茶の間へ横座りして一人テレビを見ていた母に宣言した。
「もうやだ! 卒業式が済んだらすぐ、あの人断るから!」
 母は驚かなかった。 気を落ち着けるようにコーヒーを一口飲んでから、渋い声で言った。
「いいよ。 母さんは許す。 ただ、父さんと治〔おさむ〕は喧嘩吹っかけてくるだろうから、すごく居心地悪くなるよ」
「じゃ、出てく」
 覚悟を決めて、香南はきっぱりと答えた。


 母とは今も電話やメールで連絡を取っている。 でも、兄の治の結婚式には招かれなかった。 彼は招待されて、普通に出席したらしい。 そこも、香南にはちょっと理解できなかった。
 香南は、母と共に彼に会い、婚約解消を申し出て詫びた。 だが、彼は受け入れなかった。 いつか気が変わって戻るのを待つ。 その一言で、後は何も聞いてくれなかった。
 だから、香南は単に家を出るだけでなく、大好きな故郷を離れざるをえなくなった。 彼が探し出せないほどごちゃごちゃした都会に、身を潜めるしかなかったのだ。 あなたは自由だと口をすっぱくして言って出てきたのだから、早く他に好きな人を見つけて結婚してくれればと、ずっと願い続けている。


 蔦生の腕は、彼とは大違いだった。 力も熱も、わずかに漂ってくるビールの匂いさえ好ましい。
「運転、大丈夫?」
 息だけで尋ねると、同じような囁きが返ってきた。
「コップ一杯だけだから、たぶん」






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