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―52―
香南は、じっとしていた。 これまでとは違う男の熱い欲望を感じたが、逃げようとは思わなかった。
背中を抱えこみ、すっぽり胸に包んだまま、蔦生が語りかけた。
「こんなふうにするつもりじゃなかった。 女イコール誘惑だと、自分に言いきかせてたし」
話しながら、蔦生は床に腰を落とし、香南を膝に抱き上げた。
「これから、うちに来るか?」
驚いて、香南は自然にうなだれていた首をあげ、斜めに振り向いた。
「お宅に?」
「そう。 来てくれたら」
髪に顔が埋まって、声が篭もった。
「OKしてくれたんだと思う」
香南は、体に巻かれた腕に、そっと自分の手を通した。
女のようにふっくらしてなくて、筋肉と骨がはっきり感じ取れる蔦生の腕の感触は、嫌ではなかった。 嫌どころか、もっときつく抱きしめられてもいいと思った。
目を閉じると、故郷を出てくる寸前のもやもやした葛藤が、久しぶりに蘇ってきた。 あのときは、家を出てきたというより、むしろ脱走したのだ。 近所ではまたとないと言われる好条件の相手だったが、気づくと我慢できなくなっていた。
身勝手と言われても、嫌なものは嫌だ。 彼は美男だったし、生活に困らないからおっとりしていて、おおらかだと褒められていた。 それでもだ。
短大に通っていた香南は、十九の夏にファーストフード店でバイトしていて、ふらりと友達と一緒に入ってきた彼に、興味を持たれた。 それから彼は、おなじ友達と数回現れ、やがて単独で来るようになった。 香南は彼を、ただの客としか思わなくて、バイトの同僚のほうが先に気づいた。
初めは、野外コンサートのチケットが余分にあるからと誘われた。 ちょうど行ってみたかったから、気軽に受け取った。 だが、彼の車には乗らず、兄に送ってもらった。
香南は別に、恋に憧れてはいなかった。 そして、相手は結婚に憧れていた。 数回、デート未満の外出を重ねた後、彼は香南の家にやってきて、将来は一緒になりたいんですけど、と切り出した。
彼には彼の夢があったのだ。 香南のとは重ならなかったが。
家族は大賛成で、香南がためらっているのに気づかなかった。 あるいは、気づかないふりをしていた。 ちょうど兄が恋愛中で、もうじき広くもない家に嫁さんを迎えることになるのが、わかっていたからだ。
家族にだってそれぞれの事情がある。 香南はとりあえず、彼と付き合ってみることにした。
だが、二人きりになってみると、彼は何もかも下手だった。
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