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―34―
えー〜〜〜?
香南は目をむいた。
冗談めかした言い方だったから、蔦生がどこまで本気なのかよくわからない。 とりあえず、ぎこちない笑みを顔に貼り付けて、囁き返した。
「いいの? そんなことしちゃって……。 ほんとに尾行中だったら、証拠写真撮って、本命に見せるんじゃ?」
ははは、と、蔦生は楽しげに笑った。 彼がこんな無邪気な笑い方をするのは、初めてだった。
「やればいいんだ。 受けて立つよ」
そう言うなり、蔦生は長身をかがめて、顔を近づけてきた。 大いに戸惑いながらも、香南は動かなかった。 逃げようとは思わない。 むしろ、彼のキスはどんな感じか、確かめたかった。
息が暖かく感じられるぐらい近くまで、蔦生は顔を寄せた。 だが、香南がしばらく待っても、唇は重ならなかった。
大きく目を開けて、香南はぼやけて見える彼の顔を眺めた。 彼の瞼は閉じていて、睫毛が頬に影を落としているのが見える。
なんだ、キスするふりだけか。
そう悟ったとたん、なぜか香南はむきになった。 ここまで来て、フェイクで終わらせてたまるか!
妙な衝動に駆られ、思い切って、香南は蔦生の上着の前を軽く掴むと、顎を上げて唇を押し当てた。
一瞬、蔦生が激しく瞬きするのがわかった。 だがすぐ、彼の腕が背中に回り、顔が斜めに動いて、ちょうどいい角度を探し当てた。
二人は今や、しっかり抱き合ってキスしていた。 そっと下唇を噛み、柔らかくこすり合わせ、幾度も触れ合った。
なんか素敵……
香南は次第にとろけてきた。 半身浴しているような心地よさが、全身に広がった。
それがどの位続いたか、よくわからない。
やがて上を向くのに疲れてきて、香南は首をうつむけて彼の肩に頬を載せ、そのまま脇まで落として顔を埋めた。
腕を香南に巻いたまま、蔦生は深く息を吸い、低い声を出した。
「ワインが効きすぎた?」
不意に発作的な笑いが襲ってきて、香南の体が小刻みに揺れた。
「何それ〜」
「こういうムードで、酒が入ると、雰囲気に酔っちゃうというか」
「蔦生さんも?」
もう一度胸をふくらませて、大きく息をした後、蔦生は香南と目を合わせた。
「そうかもな。 酒飲んでないけど」
香南は、ふっと思い出して背後を振り返った。
長いデッキの上には、人影はなかった。 バッグを下げたあの男は、いつの間にか姿を消していた。
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