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表紙

crimson sunrise
―10―


 その夜、香南は、九時六分過ぎに駅へ降り立った。
 用心して柔らかい材質の靴をはいているが、それでもむくんだ足がはみ出るほど疲れていた。 だから、エスカレーターを使って、そうっと降りた。


 バスのタラップを上り下りするのも面倒だ。 たかが停留所二駅分だから、ゆっくり歩いていくことにした。
 久しぶりに、のんびりと商店街を冷やかしながら通った。 週末だからか、サラリーマンの姿が多いような気がする。 すでにほろ酔いを通り越して、大声で歌いながら肩を組んで歩いている二人組を見かけた。
 ダークスーツが目に入る度に、香南はそわそわした気持ちになった。 意識しないよう言い聞かせたにもかかわらず、九時半までにはアパートに帰り着こうとしている自分がいる。 あの会社役員風の『蔦生』氏は、その場しのぎで親切そうなことを言っただけかもしれないのに。
 いいんだ、いなきゃいないでホッとする。
 今日は朝からずっと、渋谷のビル一階のロビーで、日焼け止めの長手袋や冷房よけのボレロなど四通りに使えるという、薄手のマフラーを宣伝していた。 好奇心に駆られて立ち止まる通行人の前で、素早くボタンを留め変えて変形させながら、何度か考えた。 今のアパートは、やっぱり条件がいいから引っ越したくない。 自分でロックを探して取り付ければ、安くすむんじゃないだろうか。 たしか窓につけるヤツは、通販で宣伝していた。


 いつも通り、青々とした葉を茂らせるイチョウの前で足を止め、心の中で、ただいま、と挨拶してから、香南はアパートの門に向かった。
 中に入って、共有階段に近づいたとき、思わずギクンと急停止した。
 自転車置き場の柵に寄りかかっていた男が、香南を見てすぐ体を起こしたからだ。
 門柱と玄関脇に照明がついているだけで、置き場の周囲は薄暗かった。 だから香南は、男を見定めようとして、思わず上半身を乗り出した。
 それほど朝とは変わって見えたのだ。 濃色のズボンの上に、白っぽいサファリ風のジャケットを無造作に着ている。 背景にクルーザーを置き、グラサンを胸ポケットに引っ掛けたら似合いそうで、香南は目をパチパチさせた。 強くなってきた東風で、ファスナー付きのジャケットの裾がはためいた。
「時間ぴったり」
 そう言いながら、蔦生は近づいてきた。 大きめの声を出すと、艶が加わってなかなかいい響きだった。






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