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表紙

crimson sunrise
―9―


 体が温まった後、ざっと身支度を済ませ、ヨーグルト・カップの蓋を開けていると、改めて先ほどの青年の顔が思い出された。
 もう怖さはなかった。 彼を発見したとき、声が出ないほど震えあがったのが嘘のようだ。
 プルーンのヨーグルトを一匙口に入れて、香南は考えた。 あのままトイレに逃げ込めたら、きっと警察に電話していただろう。 そうなれば彼は現行犯逮捕か、少なくとも警察署に引っ張られて事情聴取されたはずだ。
 服装から見て、蔦生は社会的地位が高そうだ。 スキャンダルは、彼をまずい立場に追い込んだかもしれない。 それに、香南も巻き添えにされ、白い眼で見られた可能性だってある。 世間は、男女のごたごたには好奇心を持つものだ。
 蔦生青年の紳士的な態度から見て、110番する前に彼が起きてきたのは運がよかった、と香南は思った。




 朝の九時、通勤着に着替えた香南が渋谷のビル・コンプレックスに吸い込まれていった頃、蔦生も港区の自社ビルでエレベーターに乗り込んでいた。
 いつもの習慣で、箱に乗ると携帯をチェックしたくなる。 自宅に戻って着替えたコートのポケットから取り出したところで、これとよく似た携帯をギュッと握ってドアから逃げこもうとしていた小さなパジャマ姿が脳裏に浮かんだ。
 重役専門のエレベーターには、他に誰も乗っていなかった。 だから蔦生は気兼ねなく白い壁にぼんやり視点を合わせ、思いにふけった。
──よく見つけたもんだなあ。 情報誌で顔を見たのか? それともピンクちらし……いや、そんな商売をしてる子じゃない。 態度ですぐわかる──
 ともかく、罠にかけられそうになったのは確かだった。 ゴマすりの古溝が敵方についたのは知らなかったが、あの性格ではありうることだった。
 無事に逃れたことは、まだ知らないだろう。 オフィスのドアを開けて、古溝の反応を見るのが楽しみだ。 蔦生の顔に、不敵な笑いが浮かんだ。


 アパートを出てから、彼は近くに小さな公園を見つけて入り、二十分ほどベンチに座っていた。
 そのベンチからは、アパート前の道がよく見える。 里口という子が警察を呼べば、すぐわかるはずだった。
 寒いのを我慢して、しばらく見張っていたが、何も起きなかった。 二組ほど、犬を連れて散歩している人が通り過ぎていっただけだった。


 胸を撫でおろして、小公園を出ていくとき、考えた。
──古溝のヤツ、人選を間違えたな。
 あの子はしっかりしている。 それに真面目だ。 簡単に逆上して騒ぐようなガキじゃないんだ──


 里口、の下の名前は、なんというんだろう。
 蔦生は、ぜひ知りたいと思った。







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