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 あの日あの時  50




   つとめて平静に、エマは話の続きを促した。
「それで?」
 ウィンプルは窓から離れ、ゆっくりと金庫の前に行った。
「ハンカチは、旦那様に渡したんです。 引き出しにしまわれるところを見ました。 それっきりで忘れていたんですけど、あの晩、旦那様が床に倒れているのを見つけて……」
 言葉が途切れた。 ウィンプルは顎に力を入れて歯を噛みしめ、じっと金庫を睨みつけた。
「思ったんです。 あの貧乏学生が腹いせにやったにちがいないって。 夕方の汽車に乗らずに、金を奪いに来たんだって。
 他に考えようがなかった。 よりによってあの晩でしたから。 それでとっさに引出しからハンカチを取って、床に落としておいたんです。 警察の手がかりになるように」
 金庫を見つめたままのウィンプルの目から、光るものが流れ落ちて、静かに頬を伝った。
「新婚間もなく夫を心臓病で亡くしてから、ずっとこのお屋敷に勤めさせていただきました。 旦那様も奥様も、そしてお嬢様も、皆さん私によくしてくださった。 ご家族の端くれみたいな気持ちで過ごしてきました。
 その大事なお嬢様を、将来性のない馬の骨に連れていかせたくなかったんです。 エマ様にはもっとふさわしい家柄のお相手がいるはずだと、そう思ってしまって」

 エマは静かに呼吸していた。 嵐のように荒れた気持ちは次第に収まり、替わりに疲労感と切なさが胸を占めた。
 確かに、ウィンプルは下心のある人間ではない。 いつもコツコツと真面目に働き、不満を口にしなかった。 だが、仲良しのエマはともかく、短気であまり思いやりのなかったクリフォードにまで家族のような愛情を寄せていたとは、驚きだった。
「警察には見つからなかったけど、あなたの計画は当たったわ。 あのハンカチのおかげで、私はロディの後を追っていけなくなった」
「すみません」
 低く固い声が詫びた。
 カーテンを開いた窓から、白い朝の光が部屋の半分を明るく光らせていた。 その光と影の境目に、ウィンプルは立っていた。 薄暗い闇に顔を向けて。
 エマは少し考え、それからウィンプルに歩み寄って、肩に手をかけた。 ウィンプルはびくっとした。
「これは、二人だけの秘密にしましょう。 今まで通り、ここにいてちょうだい。 私達はニューヨークに行かなくちゃならないから、信用できる管理人が必要なのよ」
 愕然として、ウィンプルは激しく振り向いた。 日光が容赦なく、頬の荒れや口元の皺を照らし出した。
「首になるのでは?」
「いいえ」
 エマはきっぱり否定した。
「あのとき駆け落ちしていたら、ロディが今のように成功できたかどうかわからない。 私を、というか、私の家と父を見返してやろうと思ったから、彼は必死で働いて地位を築いたんですって。
 私ね、あなたが犯人の手引きをしたんじゃないかと疑っていたの。 でもアッシュは何も言わないし、今あなたの話を聞いて、それは違うとわかったわ。 だから、もう忘れましょう」
 ウィンプルはうなだれた。 しばしの沈黙の後、囁きが聞こえた。
「それでは……朝食の支度を見てきます」
 戸口まで行って、ウィンプルはためらい、振り返った。 そして、ぎこちなく言い残した。
「忘れません。 今日のことは」


 だが、ウィンプルの足は台所ではなく、奥にあるくつろぎの部屋へ向かった。
 そこにはアップライト型のピアノがあり、家族の写真が並べられていた。 ウィンプルは右に動いて、一番端に置いてある横長の写真立てを手に取った。
 それは、二十年ほど前の一家の集合写真だった。 真ん中にクリフォードとアマンダのガーランド夫妻が坐り、七歳のエマを挟んで楽しげに微笑んでいた。
 その周囲を、雇い人たちが取り巻いていた。 夫妻の左横に、若き日のデラ・ウィンプル自身の姿もちゃんとあった。
 先妻であるアマンダ夫人をじっと見つめながら、ウィンプルは写真に小声で語りかけた。
「奥様、これでよかったんですね。
 あの子は立派な大人になりました。 私が言うのもなんですけれど、エレガントで、その上思いやりがあって……。 さっきの言葉、お聞きでしたか? 涙が出ました。
 実は、ずっと迷っていたんです。 本当のことを打ち明けたくなって、我慢できそうにありませんでした。 すみません、あんなに固く約束したのに。
 でも、もう大丈夫です。 あの子の人生を、一点も曇らせちゃいけません。 クリフォード様と私の一夜のあやまちの子だなんて、決して知らせませんから、安心してください」

 小鳥を彫った枠を元通りの位置に戻して、ついでに他の写真もきちんと真っ直ぐに並べ直すと、ウィンプルは口元に柔らかい微笑を浮かべて、静かに部屋を出ていった。


【終】




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