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表紙

 あの日あの時  30




 ソーンは静かに運転席へ戻り、マーゴとアッシュはがやがやと後ろに乗った。 二人の間に挟まれて、エマは座りごこちも居心地も悪く、ロディの肩越しに前方の景色を見つめていた。
 青い車は順調に走った。 やがてエマの目線は次第に、景色からロディの後ろ姿に移った。
 容赦なく舞い上がる土埃をふせぐために、彼は皮の帽子と眼鏡をつけていた。 その帽子の下から小麦色に焼けた首筋が覗き、柔らかくウェーブした髪の先が、風になびいた。
 触れてみたい、と、エマは突然、強く思った。 こんなに傍にいるのに、まるで千里離れているかのように、二人の距離は遠かった。

 やがてマーゴが前に乗り出して、なれた手つきでハンドルを切っているロディに尋ねた。
「あとどのくらいで着きますか?」
 振り向かずに、ロディは声を張って答えた。
「十五分もあれば」
「よかった! ねえ、アッシュ、時計見せて。 あと十五分なら、ええと、十一時には充分間に合うわね」
「サンソンさんは少し遅れたほうが喜びますよ。 奥様がのんびり屋さんだから」
 歌うように、助手席の娘が言葉を添えた。 かわいい声だった。 かすかに聞き覚えがあるような気がしたが、エマはそれがどこで、いつだったか、はっきり思い出せなかった。

 サンソンの別荘では、賑やかに客があふれ、あちこちで好き勝手に楽しんでいた。 開放的なメインルームでは、グラスを持った人々がたむろして笑いさざめいていたし、庭のプールでは、最新式の水着を着た若い男女が、飛び込んで騒いでいた。
 奥のビリヤード室で盛んにキューを磨いている中年紳士が、窓から見えた。 マーゴがエマに耳打ちした。
「あれがこの別荘のご主人、ゴーディー・サンソンさんよ」
「挨拶してきます。 ギルダさん、どうぞ」
 隣りの令嬢に手を貸して、ロディはやさしく車から降ろし、並んで別荘に入っていった。 エマとは一言も言葉を交わすことはなかった。 紹介さえも、されずじまいだった。


 沼に沈んだような重苦しい気分で、エマはマーゴに連れられてメインルームに行った。 そして、次々と知り合いに紹介されたが、あまり人数が多かったため、三人ぐらいしか覚えられなかった。
 銀の盆を掲げて巡回しているボーイから、アッシュがグラスを二個持ってきてくれた。
「シャンパンだって」
「いただくわ」
 そのとき、ひときわ大きい水しぶきと拍手が沸きあがった。 高いほうの飛び込み台から、アポロのような体つきをした青年が、見事なダイブを行なったところだった。




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