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あの日あの時
26
翌朝、エマはいつも通り六時前に目覚めた。 慣れない旅で窮屈な姿勢を取っていたためか、腰と背中が張っていたが、起き上がって顔を洗い、着替えをしているうちに、だんだん体が楽になった。
階下に降りていくと、昨夜戸口で迎えてくれたナタリーという家政婦が奥から出てきて、フランスというよりイタリアなまりに近いぱきぱきした英語で言った。
「奥様はお昼までお寝みです。 朝食はどうなさいますか? クロワッサンとコーヒーならすぐお出しできますが」
「じゃ、それをお願いします」
「かしこまりました」
この客は注文がうるさくなさそうだ、とほっとした様子で、ナタリーはまたさっと奥へ入っていった。
軽い朝食の後、エマは居間に移って、ソファに投げ出してある雑誌に目を通した。 社交界のゴシップやファッションで埋め尽くされた大判の月刊誌で、少し見ているとすぐ飽きてしまった。
窓の外を確かめると、なかなかいい天気だ。 小鳥の声もする。 散歩好きのエマは、午前の新鮮な空気を吸って歩きたくなった。
家政婦に断わって外に出ようとすると、背後から声が追ってきた。
「門を出て右に行くと、川があります。 きれいなところですが、もしおいでになるなら、橋が古いから真ん中を通らずに、縁を歩いてくださいね」
道は薄茶色で、土は乾いていて硬かった。 少し歩きにくかったので、エマは左手に小さな森を見つけて、中に入りこんだ。
そこは快適だった。 森といっても、大小の木が間をあけて生えている状態で、適度に光が差し込み、決して暗くはない。 小道はリボンのようにうねって、腐葉土のおかげでふっくらと足になじんだ。
ときどき爽やかな風が吹きぬけ、小枝が揺れて、葉がさらさらと音を立てた。 妖精か小人が潜んでいそうな木々の隙間をぬって、エマは軽い足取りでしばらく歩いた。
その足が止まったのは、前方に人の気配を感じたためだった。 姿が見える前に、押し殺した声が伝わってきて、エマは節くれだった楡の幹によりかかるようにして動きを止めた。
最初に聞こえたのは、男の声だった。 しかも、フランス語ではなく、英語でしゃべっていた。
「そんなに気を遣うことはないよ。 君は僕のミューズなんだから」
柔らかく甘い女の声がすぐ後に続いた。
「私はケイトリン・バートレットとは違うの。 忙しい恋人を呼びつけて、来てくれるのが愛の証しだと自慢したりはしないわ」
「わかってる。 僕は来たくて来たんだ。 ねえギディー、困ってないで笑顔を見せて」
密やかな口づけの音がした。
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