表紙目次文頭前頁次頁
表紙

 あの日あの時  17




 声がしたのは、書斎の方角だった。
 エマは神経が過敏になっていたため、びくっとしてせっかく見つけたマッチを床に落としてしまった。
 声は、なおも続いた。 悲鳴が次第に大きくなり、咆哮に近い絶叫となって、広い家中に響きわたった。
「たいへん! たいへんです! 旦那様が!」
 お父様……?
 エマは廊下に飛び出した。 そして走った。 途中で、二階から駆け下りてきたマーゴも合流した。
 ガウンの紐を締めながら、マーゴは慌しく尋ねた。
「なに? よく聞き取れなかったんだけど」
「旦那様がって言ってるわ。 お父様に何か……」
 戸口の前まで来て、エマの言葉は吸い込まれるように消えた。
 書斎の寄せ木細工の床に、父が倒れていた。 家にいるときはいつも着ている室内着のまま、仰向けに力なく横たわり、頭の近くに家政婦のウィンプルが膝をついていた。

 マーゴが、しゃっくりのような音を立てた。
 エマは倒れかかるように部屋へ入り、横座りになって、クリフォードの手首を掴んだ。
「脈が……ないわ」
 ウィンプルが、小刻みに震えながら、倒れたクリフォードの側頭部を指差した。 そこは、暖炉の角に食い込んでいて、流れ出た血がゼリーのように固まりかけていた。
 エマは一瞬目をつぶり、吐き気をこらえた。 そして、自分でも意外なほどしっかりした声で、マーゴに呼びかけた。
「お父様は倒れて頭を打ったようよ。 すぐヴェリー先生に電話して、来ていただいて」
「ええ、ええ!」
 ようやく最初の驚きから醒めた様子で、マーゴは身をひるがえして書斎から出ていった。 電話は階段下のボックスに設置してあった。

 ウィンプルは両手で顔を覆い、祈るヘブライ教徒のように小さく体を前後させていた。 エマは半ば呆然として、父の手を握り続けていた。
 その大きな手には、まだ暖かみが残っていた。 生命の兆しはもうどこにも見られないが、息を引き取ったのはそんなに前ではないという気が、エマにはした。
 ぼんやりと、機械的に書斎を見回していた視線が、不意に止まった。 何か落ちている。 デスクの横に、見覚えのあるものが……
 素早くウィンプルに目を走らせたエマは、まだ家政婦が顔を隠したままなのを見てとって、猫のように動いた。 音を立てずに右手を伸ばして、落ちている茶色のハンカチを、さっとすくい取った。





表紙 目次前頁次頁
アイコン:お花のアイコン館
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送