表紙

6 最後のあがき


 追いつめられて仕方なく逃亡するようなことを言っていたわりには、ロベールは用意周到だった。 自分のばかりか、カトリーヌの分まで偽の身分証明書を作って、ちゃんと持ってきていた。
  その証明書を駅員に示し、彼はまんまと国際列車に乗り込んだ。 その態度はこれでもかというほどやさしく、飲み物を買ってくれたり、道中退屈だといけないからと、女性向きの雑誌まで持ってきていた。
「さあ、窓際に座って。 僕はこっちでいいから」
  にっこり笑って彼は言った。 通路側の方がいざというとき逃げやすいからなのだが、それさえ恩に着せてしまう。 僕の全ては君のために、と思わせることだけを考えているような男だった。
 
  女を連れて旅するのが国境の検問を突破するための作戦だとすれば、その後私はどうなるのだろう、と、カトリーヌはあまり考えたくない事をいろいろ予想した。 おっぽりだされるか、売られるか、それとも口封じに殺されるか……。 すっかり騙され、利用されているふりをしながら、カトリーヌはさりげなく男を観察していた。
  私はもうこの男の正体を知っている。 ではこの男は、私のことをどこまで見抜いているのだろう――まさに、狐とタヌキの化かしあいだった。
 
 列車は着々とイタリアとの国境に近づいていた。 窓の外の景色を眺めるような顔をして、カトリーヌが本当に見ているのは、窓ガラスに反射したロベールの姿だった。
  彼は武器を持っているにちがいない。 拳銃か、少なくとも短刀は必ず所持しているだろう。 大きな体だが、ロベールは非常に神経が細かく、用心深かった。 決してカトリーヌを信じていないことは、トイレにいくときに隣席の中年婦人にカトリーヌを頼んでいったことでわかる。 やさしい微笑で身をかがめ、彼は丁重な口調でその婦人に言った。
「僕の大事な人なんです。 外国旅行は初めてで……僕がいない間心細くないように、相手してやってくれますか?」
  婦人はすっかり乗り気になって、ロベールが席を外していた5分ほどの間、うるさいほどカトリーヌに話しかけてきて、こっそり逃げるどころか口を挟むチャンスさえ与えてくれなかった。 人のよさそうな彼女を命がけの騒ぎに巻き込むことはできない。 やむなく、カトリーヌは座席におとなしく座っていた。

 国境をつなぐ鉄橋が小さく見えてきたあたりで、車掌が回ってきた。 腰をかがめ、手袋をした手で、途中乗車した客たちの切符を精算している。 カトリーヌは初めから券で乗っているので、特別興味を持たず、窓を見つめ続けていた。
  その眼に、信じられないものが映った。 車掌が横を通るとき、帽子の陰からカトリーヌの方に熱い視線を投げかけていったのだ。 そのときたまたま、ロベールは下にすべり落ちたマフラーを取ろうとして足元に手を伸ばしていて、カトリーヌを見ていなかった。
  カトリーヌの方は、あまりの驚きとうれしさに、胸が爆発しそうになっていた。 白髪交じりの髪に口髭、丸眼鏡という、いかにも平凡な中老の車掌を装っていたが、あの特徴ある青い眼は、間違いようがない。 リシャール……! リシャール・ノワイエ大尉だ!

  こうなったら一刻も早くノワイエの傍に行きたかった。 カトリーヌは腹痛を起こしたふりをして、申し訳なさそうにロベールに耳打ちした。
「あの……おなかがシクシクするの」
「そりゃ大変だ」
  いかにも気の毒そうに眉をしかめてみせて、ロベールは素早く立ち上がった。 そして、カトリーヌをエスコートして列車後部に歩いていった。
  座席はどこも一杯で、ところどころ通路にまで人がはみ出している。 通り抜けるのは大変だった。 田舎から食料を担いで帰るつもりらしく、空の大きな袋やカバンを手にした人が目立った。
  人波をおよぐようによけて、ようやく2人は車両の継ぎ目にあるトイレに到達した。 するとそこには先客がいた。 ドアの近くでパイプをくゆらせながら、過ぎていく景色を眺めている。 今度は二重回しのマントに山高帽といういでたちだったが、その背中の線は間違いなく大尉その人だった。
  彼はカトリーヌの行動を読んでいたのだ。 ということは、ロベールにも読めたはずだ。 その事実が稲妻のようにひらめいて、カトリーヌは2人の男より一瞬早く行動に移った。
  それがノワイエの命を救った。 ロベールの手がふところからぱっと引き出され、ヘビのようにうねって、ノワイエの背中に何かを投げつけた。 だが寸前にカトリーヌが体当たりしたため、手がそれ、グッという鈍い音を立てて扉横の柱に突きささった。
  それは細身の短剣だった。 音がしない分、こういう人の多い場所で拳銃より役に立つ。
  振り向いたロベールの顔は、まさに鬼だった。 おそらく女に裏切られたのは生涯で初めてだったのだろう。 信じられないという表情と激怒とが入り混じって、一瞬のうちに醜く歪み、変わり果てていた。
  遂に仮面を脱いだ男は、カトリーヌの顔を容赦なく殴りつけ、倒れたところにのしかかって首をしめた。 同時に彼女の頭を床にがんがんぶつけたので、カトリーヌはあっという間に意識を失ってしまった。


 重い瞼を開いたとき、そこは小さな明るい部屋で、天井にちらちらと日の光が踊っていた。 目覚めたときは一人だったが、間もなくドアが開いて、泣きたいほど懐かしい姿が、シャツの腕をまくりあげた姿を現した。 カトリーヌは声を出せずに、ただ両腕を思い切り差しのばした。 その手を、ノワイエは両手で握りしめ、片方ずつキスした。
「怖い思いをさせたね。 危険はないと言ったのに」
  思いのままにならない口をようやく動かして、カトリーヌはかすれた声を出した。
「ここは?」
「駅員の官舎。 あいつが逆上して、僕にかまわずに君を絞め殺そうとしたんで、ピストルの台尻で頭を殴ってやっと止めさせたんだ。 本当に……殺してやろうかと思った」
  つい先ほどの光景を思い起こして、ノワイエは歯ぎしりした。
「ひとりで来たのね。 私のために危険を冒して」
  ノワイエの声も低くかすれた。
「この前のように大人数で追いかけたら、奴は必ず君を人質にしただろう。 あのときはまだこっちにも余裕があったが、今は前と違って、カウントを捕まえるのは至上命令になっていた。
  君の推理どおり、あいつは女たちを組織して情報をベッドで聞き出していた。 それで罠にかけようとしたんだが、あの威張り屋のクレソー少佐が……」
  それは殺された司令部の将校だった。
「すべてを自分の手柄にしようと内緒で割りこんできたんだ。 カウントは異常に勘が鋭い。 クレソーを目撃したとたんに危険を悟った。 それで素早く計画を変更して、クレソーを始末し、英仏共同で開発した秘密兵器の設計図を手に、君をさらって逃げ出した。
   なんとしてもあの書類をドイツに持っていかせることはできない。 奴があの列車に乗っていることを知れば、情報部は君を見殺しにして、あいつと共に抹殺しただろう」
  足に震えが走ったが、カトリーヌは驚かなかった。
「そうよね。 無国籍者を守る国なんか、どこにもないのよね」
「国が守らなくても、僕が守る!」
  不意にリシャールが爆発したように叫んだ。
「君がさらわれたと知ったとたん、部下に口止めして飛び出してきてしまった。 あいつを捕まえられなかったら軍法会議ものだったが、そんなことどうでもよかった!」
  我慢できなくなって、カトリーヌは身を起こすとノワイエに抱きついた。 彼がぐっと抱き返すのが感じられた。
「リシャール……」
「名前で呼んでくれたね」
  夢中で彼の体の感触を確かめながら、カトリーヌは尋ねた。
「あの男は、カウントはどうなったの?」
  リシャール・ノワイエは息を吸い込んだ。
「監獄に入れた。 ようやくだ。 それでわかったんだが、奴は極度の閉所恐怖症だった。 殺すより刑務所に入れたほうが重い罰になるんだ。 独房に返されるよりはと、取調べ室でいつまでもべらべらしゃべっているそうだ」
  寒々とした光景に、カトリーヌは身震いした。
  ベッドに膝をついたまま、ノワイエはためらいがちに切り出した。
「ありがとう。 すべて君のおかげだ。 偶然に道で君を見かけなかったら、カウントはまだ大手を振ってヨーロッパを股にかけていただろう」
  すっかりピンが取れて背中までふんわりと覆った栗色の髪を撫でているうちに、ノワイエは不意に熱にうかされてしまった。 もう黙っていられなくなって、彼はうつけたようにささやいた。
「好きだったんだ。 もう何ヶ月も、君のことを……
 通りを歩いている君を一目見て、僕は夢中で後をついていってしまった。 何度も何度も、変装して店に君を見に行った。 あんまり行くものだから同僚に気付かれて、そいつが冗談で上官に言ったらしい。 興味を持ったデュラン中佐が店に行って、たまたま君が赤毛なのに気づいてしまった……
  僕は反対したんだ。 情報部をやめるとまで言った。 でも僕ひとりが辞めても実行するつもりだとわかって、それならせめてこの手で守ろうと……」
  カトリーヌの眼が激しく動いた。 彼女の動揺ぶりを誤解して、ノワイエはいっそう激しく抱きしめた。
「嫌いにならないでくれ! 約束は守る。 君の国籍を昨日申請した。 この非常時だからどのぐらい手続きにかかるかわからないが、必ず許可が下りる。 訴えてでも取ってみせる!」
「ねえ」
  驚きのあまり力の入らない声で、カトリーヌが尋ねた。
「じゃ、なんで最初に会ったときあんなに冷たかったの?」
「冷たかったんじゃないよ」
  初めて抱き合ったときのように、男の体が細かく震えた。
「あがってたんだよ。 顎ががくがく鳴って、どうしたらいいかわからないぐらいに」
  ほんと? カトリーヌの心が切なく燃え上がった。 どうしてもう少し前に会えなかったんだろう。 せめてこの人が結婚する前に。
「私も好きよ、リシャール」
  寂しげに、カトリーヌは答えた。
「でも結ばれない運命だったのね」
「なぜ!」
  リシャールは驚いて頭を起こした。 青い眼と緑の眼が交わった。 カトリーヌは口ごもった。
「だって、その指輪……」
  改めて自分の左手を見て、リシャールは無言で右手を使い、八角形に磨かれた銀の指輪を抜き去った。 そして、指輪の裏をカトリーヌに見せた。
「YからTへ」
「イヴからティエリーへ。 僕の母から父に贈った結婚指輪だ」
  リシャールはゆっくり指輪の表面をなでた。
「空襲で亡くなった父のたった一つの形見なんだ。 だから心臓に一番近い指にはめていた。 でも僕のものじゃない。 僕は独身だ」
  近くの家で、誰かがラジオの音を大きくした。
  兵隊の間で流行しているという歌、『アルマンティエールのお嬢さん』が風に乗って窓から流れてきた。
  その陽気なメロディーに気持ちを乗せて、リシャールはカトリーヌの顔を両手でやさしく挟み、額に、頬に、鼻の頭に、そして唇に、熱いキスを重ねていった。
「好きだ、ここも、ここも、ここも……」
「私もよ、私も」
  2人は熱病にかかったように短い息でささやき続けた。
「牧師さんに早く頼もう。 教会に公示してもらうのは、何日前に申込むんだったかな」
  外国人で、おまけにギリシャ正教のカトリーヌにはよくわからなかった。 だが、恋人の腕にすっぽりくるまって、カトリーヌは幸せ一杯だった。
「その前に言って。 ちゃんと申込んで。 さあ、リシャール」
  ゆっくりと名残惜しそうに顔を離すと、リシャール・ノワイエは真剣な表情で、カトリーヌ・オーヴをひたと見つめ、申し込んだ。
「カトリーヌ、僕と結婚してくれ」
  たちまちカトリーヌの眼に涙がたたえられ、露をおいた若葉に似た輝きに包まれた。
「ええ、喜んで! 大好きよ! 私の、私だけのリシャール!」

〔完〕




このボタンを押してね →
読みましたヨ♪




表紙 目次文頭前頁
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送