表紙

5 2人の男


 くっきりした月の光が差し込む船室の中で、2人は寄り添って横たわっていた。 船は動いていないのに、カトリーヌの視野は淡く揺れ動き、悠久の大河の上をただよっていた。
  間もなく2人はふたつに別れ、別々の人生をまた歩み出す。 そのときに感じるだろう胸の痛みを、カトリーヌは考えまいとした。
  この国に来てから、本気で欲しがったものはほとんどないし、ごくたまに願っても手に入らなかった。 この思いもかけない優しさと充実感も、あっという間に過ぎ去る幻の1つにすぎない。 なぜなら、ノワイエは左手の薬指にしっかりと、角ばった指輪をはめているから。
  それでも思い出は残る。 暖かく甘い記憶として。 ロシアでの初恋、そして亡命してから店で知り合ったウェイターとの短い恋――二つの恋しか知らないけれど、ベッドでこんなに大事にされたのは生まれて初めてだった。 少なくとも抱き合うときは本物の紳士だ、と、カトリーヌはほろ苦いユーモアをこめて考えた。
  ノワイエは身動きし、寝返りを打つと、片腕を上げてカトリーヌを抱いた。 そして、ごく小さく囁いた。
「もう一週間、いや、5日だけ待ってくれ。 僕たちも必死で奴を探している。 見つかるかもしれないし、君に連絡が来るかも…… 頼む、5日間、僕にくれ」
 
  結局、カトリーヌは説得に応じておとなしくアパートに帰った。 船を降りて、乗ってきた車でカトリーヌを送ったノワイエは、別れ際にぎゅっと彼女を抱きしめた。 芝居とは思えない強い力だった。
 
  部屋に入ると、カトリーヌは靴を脱ぎ捨ててベッドに身を投げ、ぼんやりとその夜のことを思い返した。
  ノワイエの正体は何なのだろう。 こわもてとしか思えない表向きの顔の下に意外にも純な素顔を隠しているのか、それとも思いがけないテクニシャンで女心を操るのに長けているのか……
  カトリーヌは唐突に身を起こした。 眼が光を増し、唇が開いた。 もしかしたら…… そう、もしかしたら、あのスパイは……!

  その晩は、不意に浮かんだ思いつきにわくわくして、よく寝付かれなかった。
  翌日早々、カトリーヌは電話ボックスに飛び込み、ノワイエを呼び出した。 しかしあいにく、彼は留守だった。
  じりじりしながら仕事を終え、午後の6時過ぎにようやく、カトリーヌは大尉を電話で捕まえた。 そして、息を切らせながら告げた。
「ねえ、あなた、どうしても知りたいことがあるの。 ちゃんと答えて。 ねえ、またあそこに来てよ。 どんなに遅くなっても待ってるから」

  カトリーヌが船に駆けつけると、ノワイエはもう先に来て待っていた。 カトリーヌは一直線に彼の腕に飛び込んだ。 そして、耳たぶを軽く噛みながら囁いた。
「ゆうべ遅く考えついたことがあるの。 なぜあんなに派手な人が厳重な警戒網に引っかからないか。 それになぜ目立つ美男のほうが得なのか」
「中へ入って話を聞こう」
と、ノワイエは手短かに囁き返した。

  船室で明かりを消したとたん、カトリーヌは彼にしがみつき、胸に顔を埋めながら早口で言った。
「女よ、彼が操っているのは。 あの男の武器は俳優のような顔とクリームみたいな言葉なのよ。 レストランで話を聞きながら、誰かに似ているとずっと思っていたわ。 昨夜やっと気がついたの。 ピエール・ルノルマン。 有名なジゴロ(=ヒモとも言う。女に寄生している男)よ。
  ピエールはすごく優しくて純情に見えるの。 で、女の子が気を許して近づくと、引き返せなくなったとたんに信じられないほど冷酷になるの。 ほんの一瞬で手品みたいに気分を変えることができるのよ。
  あの男もそのとおりだった。 私と楽しく話していた直後に、顔色も変えないで警官を殴り倒したわ。
  大尉。 女にかくまわれて、その女を情報源として利用して、彼はスパイをしているんじゃないかしら。 たぶん相手は素人娘じゃないわ。 きっと高級クラブのホステスか、または一流ダンサー。 簡単には近づけない、男性が憧れそうな職業の女性」
  じっくり考えて、ノワイエは深くうなずいた。
「そうか……ありがとう。 盲点だったよ。 政府高官たちからあまりにも簡単に情報が漏れるんで、よっぽど腐りきっていて金で動くんだと思っていたが、そうじゃなくて、女か!」
  ノワイエの眼がかがやき始めた。
「今までその線が引っかからなかったのは、彼らが付き合ってるのがそれぞれ違う女だったからだ。 知っているだけでも6人はいる。
  だが、そのすべてを、カウントが支配していると考えれば……」
「カサノヴァみたいな男なのね、きっと」
  そうつぶやいてから、カトリーヌはノワイエが口をすべらせてスパイの通称を言ってしまったことに気付いた。
「カウント(=伯爵の英語読み)っていうの、彼の暗号名?」
  ノワイエの頬に凄絶な微笑がちらついた。
「本当に伯爵家の生まれなんだよ。 本名はセルジュ・ダルシノー。 エコール・ノルマルとイギリスのケンブリッジでエリート教育を受けている。 実業学校出身の僕には想像のつかない世界だ」
  じゃ、この人はエリートじゃないんだ――妙にほっとして、カトリーヌは彼の腕を枕に仰向けになった。 ノワイエはその口に軽くキスし、少しためらった後、上半身を起こすと、情熱をこめて接吻し始めた。


 2日後、将校の死体がセーヌ川から上がったという噂が町を飛び交った。 店にいて、客の話を小耳にはさんだカトリーヌは、一瞬背筋が凍りついた。
  セーヌって、まさか……
  だが幸い、彼女の心配は思い過ごしだった。 売店で新聞を奪うように買って読むと、殺された将校は情報部ではなく司令部付きで、おまけに年齢が48歳だった。
  ほっと胸をなでおろしたものの、重いしこりが心に残った。 司令部の将校…… やはりスパイに何か関係があるんじゃないだろうか。 はっきりしたことは軍の機密で何も書いていないので、カトリーヌは苛立った。

  深く考えこみながら裏通りに入ったとたん、長い腕が伸びてカトリーヌを捕まえ、口をふさいだ。
  カトリーヌの心臓が、じかに掴まれたように縮んだ。
  カウントだ!
  理屈ではない、直感でそう悟っていた。 すぐに短剣かなにかが喉をえぐると覚悟したが、指は彼女の唇を押さえているだけで、やがて耳元で柔らかい声がささやいた。
「こわがらないで、かわいい人。 僕だよ。 君をレストランに誘った、ロベールだよ」
  そうよね、もちろん――足が震えるのをなんとかして止めたいと願いながら、カトリーヌは胸の中で呻いた。
  ソフトな声は続いた。
「急に逃げ出したこと、驚いただろうね。 でも知ってるだろうが、今の時代、警官は簡単に外国人を捕まえたり拷問したりするんだ。 だから僕は君が尋問されたとき、度を失ってしまったんだよ」
  やさしく、だが軽々とカトリーヌを持ち上げて胸に添わせると、ロベール・シモンと名乗る男は懇願した。
「カトリーヌ、かわいいカトリーヌ、一緒に来てほしいんだ。 この町で僕が知っていて、心の頼りにできるのは君だけだ。 モロッコに行こう。 楽をさせてあげるよ。 お願いだから、行こう!」
  こうやって臆面もなく嘘をつき続けて世の中を渡ってきたんだ、とカトリーヌは悟った。 彼は自分に自信満々だ。 女なら絶対に自分に従うと思い込んでいる。
  逆らうのは本当に危険だった。 カトリーヌは彼に引きずられるまま、黒塗りの車に押し込まれた。

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