表紙

1  冬の踊り子

 深夜に歩く石畳の道はけっこう危険だ。 馬車の轍〔わだち〕でえぐれた溝をよけながら、カトリーヌは右足を軽く引きずって道路を渡った。
  新しい靴なんか買わなければよかったと思う。 ほんの9百メートル歩いただけで豆だらけになる靴なんか。 でも、はきやすかった前の靴は穴が二つもあき、もうどうしようもない状態だったのだ。
  貧乏ってこういうことなんだ、と、わずか半年前まで使用人と農奴合わせて120人あまりがかしずく邸宅で暮らしていたカトリーヌはつくづく思い知った。 あの時分は贅沢が当たり前だった。 同じ貴族の誰かと結婚して一生そういう生活が続くのだと信じていた。
  それが、『冬の宮殿』事件で引っくり返った。 すべてが逆様になった。 今や労働者が国の支配者で、国名まで変わってしまった。 響きのいいロシアから、ソヴィエト連邦に。
  そして令嬢エカテリーナ・ホバンスカヤ、フランス流に読むとカトリーヌ・オバンスカヤ――知り合いは、呼びにくいと言って苗字をオーヴにするよう勧めた――は、わずかな宝石を身につけただけで家を逃れ、逃亡中に母や兄たちとはぐれてしまった。

  命があっただけもうけものかもしれない――初めはそう自分を慰めていた。 今はヨーロッパ中で戦争(=第一次世界大戦)をしている。 もうじきアメリカが参戦するという噂まである。 食料はどこでも乏しい。 後にしてきた母国ロシアでは大量の餓死者が出ていると聞いた。
  しかし、カトリーヌにもそろそろ限界が近づいていた。 初めは宝石を売って細々と食べていたが、すぐ底をつき、必死で見つけた仕事はといえば……
  擦り切れた上着の襟を立て、胸元をしっかり手で押さえて、カトリーヌはようやく帰り着いたアバートを溜め息とともに見上げた。 部屋はここの最上階、4階にある、いわゆる屋根裏部屋なのだった。


  10段上って踊り場、また10段上って2階……ろくに食べていないから、頭がくらくらしてきた。 部屋までたどり着けば昨日のフランスパンが残っている。 それをミルクにひたして食べるのが、今夜の食事だった。
何度も休み休み、10分以上かけて、ようやくカトリーヌは『我が家』に到着した。 夕方からずっと脚を使いとおしだったのだから、まだ動く方が不思議なのだ。 カトリーヌはキャバレーのダンサーだった。

  大家が陰口をきいているのはうすうすわかっていた。 顔を合わせたってろくに挨拶もしてくれない。 前に一度だけだが家政婦をしている妹にこそこそ言っているのを聞いたことがあった。
「あの子さ、ビーズひとにぎりしか着けないで踊ってるんだよ」
  さすがにビーズ一握りということはないが、それに近い格好ではあった。 『メゾン・デ・カナリー』は下町のキャバレーだから、踊りもそれなりで、はっきり言って下品だった。
  それでもカトリーヌは歯をくいしばって踊り続けた。 この暮らしを失えば、後は街頭に立つしかない。 それだけは嫌だった。

  粗末な、ほとんど物のない部屋でも、入ってドアを閉めるとほっとした。 小さなガスこんろで水を入れた鍋をわかし、少しあたたかくなったところで、まず汗になった体を拭き、それからホウロウの洗面器に入れて、足をひたした。
「ああ……」
  思わず満足の息が漏れる。 この瞬間だけが天国だった。

  ところがその夜に限って、天国が中断された。 カタン、カタン、というノックの音がする。 深夜だから遠慮がちだが、それでもしつこく叩き続けている。 カトリーヌはいらいらして、脱いだ靴を拾い上げてドアにぶつけようとした。
  そのとき、考えついた。 もしかすると大家かもしれない。 家賃が2ヶ月たまっている。 明日は給料日だから支払うつもりだが、靴なんか投げて怒らせてはまずい。
  やむを得ず、カトリーヌは眼から憤懣の炎を噴き上げながら、立ち上がって靴をはこうとした。
  だが、履けなかった。 足が膨張してしまって、どうにも入らない。 シンデレラの靴を履こうとした姉のような気分で、カトリーヌは裸足のまま、ドアに歩み寄った。
  開いたとたん、思わず体が後ろにのけぞった。 予想もしない人物が、ドアの外に立っていたのだ。 こんなものが夜中に尋ねてくるなんて、本当に縁起が悪い…… それは、きっちりと制服を着込んだフランス軍の将校だった。
  カトリーヌは軍人が嫌いだった。 亡命してくるとき国境でさんざん足止めを食わされた苦い思い出がある。 警官も嫌いだ。 避難民を目の敵にしている。 だから制服そのものが、すべて嫌いなのだった。
  その上、薄暗い明かりに浮かぶその将校の顔が、気に食わなかった。 鼻が高い。 眼が鋭い。 手入れのいい口髭から、フランス人にしてはすらりと高いまっすぐな体躯にいたるまで暖かみがなく、カトリーヌの好みとは正反対だった。 
  ドアの脇に立ったまま、カトリーヌはだるそうに、わざとロシア語で尋ねた。
「何の用?」
  男が間を置かずに流暢なロシア語で応じたので、カトリーヌは目を丸くした。
「話がある。 君にとって悪い話じゃないと思う。 中に入れてもらえるかな?」
  高慢そうな顔立ちとは違い、彼の口調は横柄ではなく、言葉遣いは礼儀正しかった。 カトリーヌは用心しながらも、体を斜めにして通路を空けた。 ただし、男が通った後、ドアは開けっぱなしにしておいた。
  将校は軽く頭を下げて入ってきた。 つまりそれぐらい背が高かったということだ。 屋根裏部屋は天井が斜めになっていて、ドアのところが普通よりは低かったにしても、相当な身長だった。
  彼はカトリーヌを椅子に座らせ、自分は窓枠に腰をかけて、固い口調で切り出した。
「ある男に会ってほしい。 その男にうまく会うことができたら、彼がどこに滞在しているか僕に知らせてくれ。 君の仕事はそれだけだ」
  はあ? カトリーヌはあっけに取られた。 いったいこの妙な将校は、何を話しているのだろう。 狐につままれたようなその顔を見て、将校は話をUターンさせた。
「失礼。 まだ名乗ってなかった。 リシャール・ノワイエ大尉。 情報部所属だ」
  情報部――カトリーヌの視線が鋭く変わった。
  そして、ロシア語をやめて、家庭教師仕込みのきれいなフランス語ではっきりと言った。
「それって悪い話でしょう? きっとすごく危険なんだわ。 そうでしょう?」
  男の意志の強そうな青い眼に、初めてかすかなためらいの色が走った。
「危険が無いとは言わない。 でも情報部と聞いて君が考えたほど危なくはない。 その男は君のような赤毛で眼が緑色のほっそりした美人に弱いんだ。 たぶん死んだ母親に似ているからだろう。 奴の唯一の弱点といっていい。 だから君に危害を加えることは99パーセントない」
  残りの1パーセントが危ないんだわ、とカトリーヌは苦々しく考えた。 断ろうと口を開きかけたとき、ノワイエ大尉が静かに言った。
「成功したら、僕が責任を持って、フランス国籍を取得してあげよう」
  国籍! カトリーヌはゆっくり息を吸い込んだ。 ロシアからフランスに逃げ込んだ革命移民は数万とも数十万とも言われ、厄介者扱いされている。 旅券がないからまともな仕事にはつけない。 定期的に警察が『狩り出し』に来て、掴まると国外追放にされることさえある。 だがもし国籍が手に入れば、ちゃんとした仕事が探せる。 堂々と大手を振って歩ける!
  軍人の言うことなんて信用できるの? と心の声がささやいた。 もうさんざん辛い目に遭ってきたはずだ。 詐欺にかけられたし、スリにもあった。 騙されるのはこりごりだ。
  カトリーヌの迷いを見抜いたのだろう。 大尉は攻勢をかけてきた。 ふところから札束を取り出して、窓枠に置いた。
「店は休んでもらうことになるから、これは補償金。 作戦が成功した後、君があの店に戻りたければ、店主に言って必ず復帰させるから心配ない」
  できれば他の仕事を見つけたいけど、もしなければそれでも、とカトリーヌは思い、もう半分乗り気になっている自分に気付いてはっとした。
  信用できるのか? 利用されただけで終わってしまうのでは? それならまだいい。 命を失うことにでもなったら!
  でも、引き受けなければ軍隊ににらまれる。 嫌がらせをされるのは本当に困る。 カトリーヌは悩んだ末、もう少し詳しく訊くことにした。
「誰かさんに会うって、いつ、どこで?」
「それを聞いたら、やることになるよ」
  大尉ははっきりと言った。 カトリーヌの頬が引きつった。
「どうしても?」
「そう、どうしても」
  しかたない。 これまで幾度も死地を潜り抜けてきた勘がカトリーヌに告げた。 この男はまあまあ信用してもいいだろうと。
「じゃ、やるわ。 ただし、そのお金とは別に、ここの家賃を払ってくれたら」
  男は微笑の影も見せずにうなずいた。
「いいだろう。 おまけにもう2百フランつける。 それでもう少し野暮な服を買ってくれ。 君にはゴルトベルガーの時計屋で働いてもらうから」



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