表紙

2 時計店で


 スパイの訪れを密告してきたというゴルトベルガーの経営する時計宝飾店は、シャンゼリゼ通りから1つ入ったところにあった。 なかなか立派な店構えなのだが、表通りに出さないというところが肝心な点で、昼間は普通に商売していても、夜になると怪しげな人間がひとり、またひとり、時には数人連れ立って闇に紛れて入っていく、そういう店だった。
  だから店主も上品そうな見かけとは異なり、狭い陳列台の横ですれ違うとき、カトリーヌの体をすっと撫でたり、胸をじろじろ見つめたりする、なかなかの助平おやじだった。
  こういう中年には店で慣れていた。 だからさりげなく受けながすのだが、ゴルトベルガーは相当しつっこく、終いには彼が傍に来るたびにわめき出したくなった。
  店主さえいなければ、快適な職場だった。 もともと堅気の仕事につきたかったカトリーヌは、毎日うっとりと高価な時計やネクタイピン、カフスボタンなどを眺め、せっせとショーウィンドウをみがきながら品物の名前や値段、製造店などを覚えた。 カトリーヌが務め出してから、男性用装飾品店であるこの店に、明らかに彼女目当ての男性客が増えたので、ゴルトベルガーも満足していた。

 仕事について2週間目、カトリーヌが部屋でくつろいでいると、またドアにノックの音がして、ノワイエ大尉が業務連絡に来た。 まともな話し相手に飢えていたカトリーヌは、思わず笑顔になって彼を迎えた。
  しかし、ノワイエは最初と同じに態度が硬く、ややそっけなかった。
「勤めに慣れたようだね。 そろそろ目的の男がパリに現れるから、わかっている特徴を話しておこう。 背は高く、眼が茶色だ」
  うなずきながら手帳を出して、書きとめようと用意していたカトリーヌは、しばらく次の言葉を待った。
「それで?」
  ノワイエはあっさり言った。
「わかっているのは、それだけなんだ」
  あきれて、カトリーヌは手帳をぽんと小机に置いた。
「それじゃ、何もわかってないのと同じじゃないの」
「用心深い男なんだ。 大人になってから写真を撮られたことがないし、変装がうまい。 髪の色はいくらでも変えられるからあてにならない。 英語、ドイツ語、スペイン語が巧みで、ほぼヨーロッパ全域の国民に化けられる」
  カトリーヌは途方に暮れた。 そんな掴まえ所のない男と、どうやって会えるのだろう。 会ったって、本人かどうかの確認が取れるのか?
  大尉はやや面白そうにカトリーヌを眺め、付け加えた。
「ゴルトベルガーが彼を知っていて、来れば教えてくれる。 君はその男に普通に接すればいい。 特にこびたり、誘惑しようとしたりする必要はない。 たぶん奴はそのうち君を誘うはずだ。 どこで何時に会うことになったか、それだけ知らせてくれればいいんだ」
「妙なところに連れ込まれることはない?」
  ノワイエ大尉は感情を見せない眼でまっすぐカトリーヌの眼を見返した。
「心配なら、同じ車に乗って出かけないで、待ち合わせ場所で落ち合うことにすればいい」
  そんなこと大した問題じゃないだろう、と青い眼に言われているような気がして、カトリーヌはむっとなった。 ダンサーの中には体を売る女がいないわけじゃない。 だがカトリーヌはこれまで一切、そういう真似はしなかった。 たとえ金が足りなくて、一日一食しか食べられなくても。
  さっと立ち上がると、カトリーヌは相手に負けない事務的な口調で言った。
「わかったわ。 期待に添えるようにします。 だからもう帰って。 疲れてるの」
  男は彼女に続いて立ち上がり、軍帽を胸にあてて軽く頭を下げると、規則的な足取りで階段を下りていった。


 その午後は3時まで客が来なかった。 ゴルトベルガーの小さな眼が自分の動きを追っているので、カトリーヌは朝から居心地が悪く、誰か来ないかと何度も店の入口を眺めた。 だが、そんなときに限って誰も姿を現さない。 とうとうゴルトベルガーは時計を並べなおすという口実を設けてカトリーヌに近づき、もぞもぞと腰のあたりをさわり始めた。
  カトリーヌは内心溜め息をつきながら、男の手を捕らえて体から引きはがした。 それでもゴルトベルガーがしつっこく抱きつこうとしたとき、足音が聞こえて、不意にカトリーヌは自由になった。
  眼を上げると、夜会服を着たハンサムな青年が、猫のように店主の首根っこを掴んで、床から10センチ以上持ち上げていた。
  カトリーヌと眼が合うと、青年は微笑んだ。 長い睫毛の下の黒味を帯びた目がえらく美しい。 よくそろった真っ白な歯が、育ちのよさを表していた。 こんな美男は見たことがない、と、カトリーヌは思わず見とれた。
「大丈夫?」
  青年は澄んだバリトンで尋ねた。 カトリーヌは無意識に微笑み返した。
「ええ」
  息が詰まって目を白黒させている店主をようやく床に降ろし、ゴミのように隅に押しやってから、怪力の美青年は穏やかに言った。
「こんな扱いに我慢していることはない。 よかったらもっといい職場を紹介してあげるよ」
  そこでいくらかためらって、青年は少し頬を赤らめた。
「あのね…… 明日の晩、『オラクル』っていうレストランで会わないか? サンジェルマンの外れにあるんだが」
  カトリーヌは戸惑った。 秘密任務の最中に、美青年とデートなんかしてもいいものだろうか。
  そのためらいが、青年には快いものに映ったらしい。 笑顔がいっそう優しくなった。
「そうだよね。 急に言われても困るよね。 でも安心して大丈夫。 『オラクル』はちゃんとした店だから。 心配だったら昼間に行って確かめてごらん」
  この言葉でカトリーヌの心は決まった。 この間のノワイエ大尉との気まずい話し合いがなかったら、任務のために断ったかもしれない。 だがカトリーヌの自尊心は傷ついていて、こんなきれいな青年にレディー扱いされたのが無性にうれしかった。
  カトリーヌが笑顔でうなずくと、青年は幸福そうに言った。
「じゃ、明日の8時にね」
  彼は何も買わずに出ていった。 うきうきしながらカトリーヌがカウンターに戻ったとき、奥に引っ込んで小さくなっていたゴルトベルガーが顔をのぞかせ、仏頂面で言った。
「あれが彼だ」
「え?」
  カトリーヌは思わず棒立ちになった。 ゴルトベルガーは誰かが聞いていないかと心配して、ごく小さな声でつぶやいた。
「あれが軍隊のお目当てのスパイだよ」



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